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3_湯呑みの茶

家と親を押しつけて出ていき、旅先で死んだ姉を赦した妹が、毎朝仏壇の姉の湯呑みにだけ茶をこぼす。姉の友だちは、お姉さんも茶をこぼす人だったと告げた。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

3_湯呑みの茶

朗読で聴く

第一章 仏壇

朝の五時に起きて、まず、仏壇に茶を供える。

わたしは四十五になる。

盆地の、古い農家に、生まれて、そのまま、住んでいる。

桃と、少しの米をつくっている。

夏の朝は、早い。

桃は、朝の涼しいうちに、袋を、掛けてやらないと、日に焼ける。

起きてすぐ、仏壇に向かうのは、そのためでもある。

五時には、もう、窓の外が、白んでいる。

蝉は、まだ、鳴きはじめていない。

仏壇は、奥の座敷の、床の間のそばにある。

黒い扉を、左右に、開く。

中に、小さな湯呑みが、三つ、並んでいる。

右が、父。

真ん中が、母。

左の、いちばん小さいのが、姉の湯呑みだ。

薄い藍の、細い縞の入った、素朴な湯呑みで、ふちが、すこし欠けている。

台所で、急須に茶を入れて、仏壇の前に運ぶ。

右から、順に、つぐ。

父と、母の湯呑みには、ちょうど、七分目まで入る。

姉の湯呑みに、つぐときだけ、手が、わずかに揺れる。

茶が、湯呑みのふちを越えて、盆に、こぼれる。

ほんの、数滴だ。

それでも、必ず、こぼれる。

三年、毎朝、そうだ。

わたしは、こぼれた茶を、布巾で拭いて、それから、手を合わせる。

手は、そのあいだ、冷たい。

夏でも、そこだけ、指先が、冷える。

第二章 出ていった姉

姉は、わたしより、五つ年上だった。

勉強の、できる人で、手先も、器用で、近所の誰からも、頼りにされていた。

わたしが十五の春、姉は、家を出た。

二十になったばかりだった。

朝、起きたら、姉の布団が、畳まれていた。

枕もとに、紙が、一枚、置いてあった。

「家のことは、お願いします」

それだけだった。

父は、病気がちで、田の仕事ができなくなりかけていた。

母は、腰を悪くして、ほとんど、座ったままだった。

姉が、いちばん、働いていた。

その姉が、いなくなった。

わたしは、学校を、やめた。

高校には、行かなかった。

十五のわたしが、田に出て、桃の枝を、剪定した。

父の薬を、取りに行き、母の腰を、さすった。

最初の何年かは、毎晩、台所の隅で、泣いた。

十年たつころには、泣かなくなった。

泣かなくなったのではない。泣く暇が、なくなったのだと思う。

桃も、父も、母も、待ってくれなかった。

姉からは、手紙も、電話も、なかった。

それから、二十七年、顔を、見なかった。

父は十年前に、母は六年前に、世を去った。

どちらの葬式にも、姉は、来なかった。

知らせる先が、わからなかった。

三年前の春、見知らぬ町の役場から、電話が、あった。

旅先で、亡くなった、人がいる、と。

持ち物に、この家の住所を書いた紙が、入っていた、と。

湯呑みは、そのときの、骨壺と一緒に、帰ってきた。

姉が、使っていたものだと、役場の人が、言った。

わたしは、それを、仏壇に、置いた。

第三章 梅干し

隣の、少し離れた家に、叔母が、住んでいる。

七十二になる、父の妹だ。

梅干しを、漬けるのが、好きで、毎年、夏のはじめに、庭で、天日に干す。

「今年は、樽が、十一ですよ」と、叔母は、よく言う。

「去年は、九つだったでしょう」

わたしは、「ええ」と、答える。

叔母は、その樽の数が、一年の、出来のしるしだと、思っている。

わたしが数えているのは、朝、湯呑みの茶を、こぼした回数だ。

千と、少し。

三年を、日にちで割れば、そうなる。

同じ家の、軒先で、叔母とわたしは、まったく、別のものを数えていた。

叔母は、梅の実を。

わたしは、ふちを越えた、茶のしずくを。

叔母は、わたしの朝のことを、勤勉だと言ってくれる。

その言葉は、半分だけ、本当だ。

第四章 昔から

今年の六月の、はじめに、客があった。

姉の、古い友だちだと、いう人だった。

四十代の半ばくらいの、静かな、女の人だった。

姉が亡くなったと、人づてに聞いて、やっと、訪ねる気になったのだと、いう。

奥の座敷に、通した。

仏壇に、手を合わせてもらって、わたしは、茶を、出した。

その人は、姉の湯呑みを、しばらく、見ていた。

それから、わたしが、朝のぶんの茶を、つぐところを、見ていたらしい。

台所から戻ると、その人は、小さく、笑っていた。

「お姉さんも、茶を、こぼす人でしたよ。昔から」

悪気は、なかった。思い出した、ことを、言っただけだ。

「学校の、休み時間に、湯呑みを、持つと、必ず、少し、こぼして。いつも、袖で、拭いていました」

わたしは、「そうでしたか」と、答えた。

姉が、そうだったとは、知らなかった。

十五のわたしが、見ていたのは、働く姉の背中で、茶を持つ手では、なかった。

その人は、長居は、しなかった。

帰りぎわに、縁側の石の上で、靴を履きながら、言った。

「手紙を、出そうと思っていたのです。何度も。出せなくて」

それだけ言って、頭を下げて、帰った。

わたしは、縁側に、立っていた。

桃の木の葉が、風に、揺れていた。

姉の手は、わたしと、同じだった。

それを、三年、毎朝、わたしの手が、知っていた。

その夜、わたしは、仏壇の前に、長く、座った。

第五章 こぼれたまま

姉を、赦している。

それは、本当だ。

姉が死んだと聞いた日の、翌日には、もう、わたしの中で、怒りは、なかった。

二十歳の姉が、何を見て、何から、逃げたのかを、わたしは、四十を過ぎてから、わかるようになっていた。

わたしは、姉が、背負っていたものを、あとから、背負ったのだ。

だから、わかる。

だから、赦した。

赦したのだから、手も、そのうち、揺れなくなると、思っていた。

赦せば、痛みも、終わるのだと。

でも、そうではなかった。

赦したのに、まだ痛い。

痛みは、姉に向いていない。

朝、布団が畳まれていた、十五のわたしの、手のなかに、残っている。

姉は、もう、いない。

赦しは、姉には、届かない。

詫びられることも、もう、ない。

返してもらうものは、何も、ない。

返してもらうのを、やめたのが、赦すということだったと、思う。

それで、痛みは、減らなかった。

減ったのは、姉が、いつか、帰ってくるかもしれない、という、期待のほうだけだ。

茶を、こぼさないように、していた時期がある。

両手で、湯呑みを、支えて、息を、止めて、つぐ。

それでも、七分目の手前で、手が、揺れた。

ひと月ほど、試して、やめた。

こぼれるのを、やめさせるのを、やめた。

もう少し、そこにいていい。

あの朝の、十五のわたしが、そこに、いる。

そう思っても、茶は、こぼれた。

ただ、拭くときに、思うことが、変わった。

前は、「まだか」と、思っていた。

いまは、「ああ、いたね」と、思う。

エピローグ

七月の、朝の五時。

仏壇の扉を、開けた。

右から、父、母、そして、姉の湯呑みに、茶を、つぐ。

姉の湯呑みで、手が、わずかに揺れて、茶が、ふちを越えた。

わたしは、盆に、こぼれた数滴を、布巾で、拭いた。

それから、湯呑みの、欠けたふちを、親指で、一度だけ、なでた。

扉を、開けたまま、台所へ戻って、自分の湯呑みに、茶を、入れた。

縁側に出て、桃の袋掛けの、朝の仕事に、取りかかった。

ソウルミッション358

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