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2_二十五日の引き出し

黙って人に金を貸した亡き夫を赦した妻が、毎月二十五日に茶箪笥の小引き出しの前で手が止まる。古道具の人は、この取っ手だけ磨り減っていると告げた。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

2_二十五日の引き出し

朗読で聴く

第一章 小引き出し

毎月二十五日の朝、わたしは、茶箪笥の前に立つ。

わたしは六十六になる。

港のそばの古い家に、一人で住んでいる。

漁協の事務を、三十六年、勤めた。

いまは、年金で暮らしている。

夫が遺した、小さな船の、機関の工具も、まだ、物置にある。

手入れは、しない。ただ、捨てられずに、そのままにしてある。

茶箪笥は、嫁入りのときに持ってきた。

黒ずんだ欅で、扉の硝子には、波のような、細かい筋が入っている。

その下の段に、小さな引き出しが、二つ並んでいる。

右の一つが、通帳をしまっていた引き出しだ。

二十五日は、年金の日だった。

夫が元気なころは、その朝、夫が、引き出しから通帳を出した。

わたしが、近くの窓口に、持っていった。

夫が死んでから八年。

いまは、年金は、そのまま、口座に入る。

引き出しを開ける用事は、もう、ない。

それなのに、二十五日の朝になると、わたしは、箪笥の前に立つ。

右の小引き出しの取っ手に、指を、かける。

かけたところで、手が、止まる。

開けない。

かけたまま、しばらく、そこに、立っている。

外では、港のほうから、船の機関の音が、聞こえる。

冬の朝は、窓の硝子が、白く曇って、音だけが、よく通る。

指を離すと、手のひらに、取っ手の、冷たさが、残っている。

わたしは、それから、台所へ行って、湯を沸かす。

八年、毎月、そうしている。

第二章 貸した金

夫は、船の機関の修理をしていた。

無口で、手先が器用で、頼まれると、断れない人だった。

亡くなる三年前の秋、夫は、知り合いに、金を貸した。

わたしには、何も、言わなかった。

三百万円だった。

わたしが知ったのは、夫が、それを貸してから、半年あとのことだ。

通帳を、引き出しから出して、窓口で、記帳した。

数字が、減っていた。

一つ、減って、また一つ、減っていた。

窓口の人は、何も言わずに、通帳を返してくれた。

家に戻って、夫に、聞いた。

夫は、茶の間の隅に、座っていた。

しばらく黙ってから、貸した、と言った。

その人は、もう、町にいなかった。

夫は、返してもらうつもりは、もう、ないようだった。

「困っていたから」と、夫は言った。

それ以上は、何も、言わなかった。

わたしは、怒った。

怒鳴りは、しなかった。ただ、声が、低くなった。

低い声のほうが、怒鳴るより、長く、残ることを、知っていた。

三十年かけて、二人で、貯めたものだった。

漁協の給料から、少しずつ、除けてきた。

わたしが、一人で、毎月、数字を見ながら、守ってきた。

それを、一言も言わずに、人に渡した。

その晩、わたしは、夫と、口をきかなかった。

翌月の二十五日、夫は、引き出しから、通帳を出さなかった。

わたしも、取りに行かなかった。

それから、二年と少しのあいだ、二十五日の朝は、あの引き出しの前で、二人とも、立ち止まるようになった。

夫は、病気で、先に逝った。

貸した金のことは、とうとう、きちんと話さないまま、だった。

第三章 水揚げ

隣は、魚屋で、六つ年下の奥さんが、店に立っている。

朝、店の前を掃くとき、必ず、声をかけてくる。

「今朝は、あじが、よく揚がりましたよ」

奥さんは、水揚げの量を、毎朝、帳面につけている。

何箱、何キロ。

日によって、ずいぶん、違う。

「これでも、昔の三分の一ですからね」と、奥さんは、よく言う。

わたしは、「そうですね」と、答える。

奥さんの数えているのは、海の、豊かさだ。

わたしの数えているのは、引き出しの前で、手が止まった月の数だ。

九十六回。

八年を、月に一度ずつ、数えれば、そうなる。

同じ路地の、隣り合った二軒が、まったく、別のものを数えていた。

奥さんは、わたしの数を、知らない。

わたしも、奥さんの帳面を、見たことは、ない。

それで、いいと思っている。

けれど、ときどき、奥さんが帳面を閉じるときの、紙の音を、聞くと、自分の引き出しが、閉まる音のような気がする。

第四章 取っ手

去年の暮れに、茶箪笥を、手放そうと、考えた。

一人暮らしには、大きすぎる。

家の片づけを、すこしずつ、始めていた。

古道具の買い取りの人が、見に来た。

三十くらいの、人当たりのいい男の人だった。

箪笥の前に、屈んで、扉を開けたり、引き出しを引いたりした。

一つ一つ、手で、確かめていく。

左の小引き出しは、すっと、出た。

右の小引き出しも、出した。

それから、取っ手を、親指で、なでて、言った。

「この引き出しだけ、取っ手が、磨り減っていますね」

悪気は、なかった。見たままを、言った。

「左は、ほとんど、新品みたいですが。右だけ、金具の角が、丸くなっています」

わたしは、「そうですか」と、答えた。

男の人は、それ以上、何も、言わなかった。

値段を、紙に書いて、置いていった。

その人が帰ったあとで、わたしは、右の取っ手を、自分の指で、確かめた。

たしかに、角が、丸い。

わたしが開けた回数のせいではない。

夫が、三十年、毎月、開けた、ぶんだ。

それから、わたしが、八年、開けないまま、指を、かけた、ぶん。

箪笥は、手放さなかった。

第五章 引き出しのまま

夫を、赦している。

それは、本当だ。

夫が死んだとき、わたしは、もう、怒っていなかった。

貸した金は、返ってこなかったが、夫が、人を放っておけない人だったことは、知っていた。

それは、わたしが、嫁いだ理由の、一つでもあった。

だから、赦した。

赦したのだから、手も、そのうち、止まらなくなると、思っていた。

赦せば、痛みも、終わるのだと。

でも、そうではなかった。

赦したのに、まだ痛い。

痛みは、夫に向いていない。

通帳の数字が、減っていくのを、一人で見ていた、五十五のわたしの手に、残っている。

夫は、もう、いない。

赦しは、夫には、届かない。

詫びられることも、もう、ない。

返してもらうものは、何も、ない。

返してもらうのを、やめたのが、赦すということだったと、思う。

それで、痛みは、減らなかった。

減ったのは、夫が、いつか、きちんと話してくれるかもしれない、という、期待のほうだけだ。

引き出しの前で、手が止まるのを、やめさせようとした年が、あった。

二十五日の朝、見ないように、別の部屋にいた。

けれど、昼になって、結局、箪笥の前に、立っていた。

やめさせるのを、やめた。

もう少し、そこにいていい。

あの年の、五十五のわたしが、そこに、いる。

そう思っても、手は、止まったままだった。

ただ、思うことが、変わった。

前は、「まだか」と、思っていた。

いまは、「ああ、いたね」と、思う。

エピローグ

二月の、二十五日。

わたしは、箪笥の前に立って、右の小引き出しの取っ手に、指を、かけた。

手は、止まった。

しばらく、そのままにして、それから、指を、そっと、離した。

取っ手の、丸い角を、親指で、一度だけ、なでた。

台所で、湯を沸かして、二つの湯呑みに、茶を、入れた。

一つは、自分の前に。

もう一つは、箪笥の上の、夫の写真の前に、置いた。

ソウルミッション358

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