1_返事の前に
小学五年で皆の前で作文を笑われた女が、亡き担任を赦したのに、名前を呼ばれると返事の前に必ず一拍息を止める。新人は、いつも一秒ほど空くと告げた。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

朗読で聴く
第一章 窓口
公民館の窓口には、小さな呼び鈴が置いてある。
わたしは三十九になる。
この山あいの町の公民館で、事務をして、十四年になる。
窓口の台は、茶色い合板で、角が白く擦れている。
その上に、真鍮の呼び鈴が、一つ、ある。
来館の方が、用のあるときに、ちん、と押す。
わたしは、奥の机から、立っていく。
春は、とくに、忙しい。
山の雪が解けるころは、町じゅうの集まりが、いっぺんに、はじまる。
窓口の前には、いつも、誰かが、傘を持って、立っている。
貸し部屋の申し込み、会費の集金、掲示のお知らせ。
一日に、三十回くらい、呼び鈴が鳴る。
鳴るたびに、わたしは、一度、息を止める。
ちん、と聞こえて、そのあとの、ほんの一拍。
息を吸ったところで、止まって、それから、はい、と答える。
一秒もない。
誰にも、気づかれないと思っていた。
名前を呼ばれたときも、同じだ。
「水野さん」と呼ばれると、わたしは、返事の前に、必ず、止まる。
十一のときから、ずっと、そうだ。
体のほうが、勝手にそうする。
止まってから、息を、静かに吐いて、はい、と言う。
そのあいだ、胸のあたりが、すこし、冷たい。
わたしは、これを、悪いことだとは、思っていない。
不便だとも、思っていない。
ただ、毎回、息を止めているあいだは、わたしは、あの教室に、いる。
ただ、毎回、同じ冷たさが来る。
第二章 作文
十一の春、わたしは、小学五年生だった。
担任の先生は、国語の好きな、声の大きな人だった。
背が高くて、笑うと、教室の窓が震えるようだった。
その年の五月に、作文の宿題が出た。
題は、「わたしの家」。
わたしは、母と二人で住んでいた古い借家のことを、書いた。
雨の日には、天井から、水が落ちる。
母は、その下に、洗面器を置く。
ぽたん、ぽたん、と鳴る音を、わたしは、布団のなかで、数える。
数えているうちに、眠くなる。
そういうことを、書いた。
先生は、その作文を、皆の前で、読み上げた。
わたしの名前を、大きな声で、呼んでから。
「水野さん、前へ」
返事をする前に、わたしは、教室の全部が、こちらを向くのを感じた。
先生は、洗面器のところで、声を、すこし、作った。
いい声だった。よく通る、舞台の人のような、声だった。
ぽたん、ぽたん、と、口で言った。
教室が、笑った。
先生も、笑った。
悪気は、なかったのだと思う。面白い、いい作文だと、先生は言った。
けれど、笑われたのは、わたしの家だった。
わたしは、席に戻るまで、息を止めていた。
それから、名前を呼ばれると、止まるようになった。
先生は、わたしが二十二のときに、定年を迎えた。
去年の秋に、亡くなった。
小学校の同窓会の便りで、知った。
その便りは、まだ、引き出しの、いちばん、上に、ある。
第三章 来館者の数
隣の席の同僚は、わたしより六つ年上で、数字に細かい。
毎日、帰る前に、その日の来館者の数を、帳面に書く。
「今日は、百十二でした」と、その人は言う。
「先月の同じ日より、八つ、増えています」
わたしは、「そうですか」と、答える。
同僚は、その数が、公民館の値打ちだと思っている。
わたしが、一日のうちに数えているのは、息を止めた回数だ。
三十一回。
先月は、二十九回だった。
同僚は、わたしが帳面を見ていると思って、にこにこしている。
わたしは、数えているものを、帳面に、書かない。
同じ窓口の前で、二人は、まったく別のものを数えていた。
同僚は、来た方の数を。
わたしは、自分が止まった数を。
不便だと思ったことは、ない。
止まっても、誰も、待たされない。
ただ、胸のあたりが、冷たくなる。
第四章 一秒
今年の四月から、新しい職員が、入った。
二十四の、おとなしい青年だ。
窓口の横に、席が決まって、わたしが、仕事を教えることになった。
三日目の、昼前だった。
呼び鈴が、ちん、と鳴った。
わたしは、いつものように、一拍、止まった。
それから、はい、と言って、立った。
戻ってきたとき、青年が、書類から顔を上げて、言った。
「水野さん、呼ばれてから返事まで、いつも一秒ほど、空きますね」
悪気は、なかった。ただ、気づいたことを、言った。
「教わった手順だと、二秒以内に答えれば、いいそうですから。大丈夫ですよ」
わたしは、「ええ」と言った。
「知っています」
青年は、それ以上、何も聞かなかった。
わたしも、何も言わなかった。
誰にも気づかれないと思っていたことが、気づかれていた。
十一のときから、一秒の空きを、二十八年、続けてきたことになる。
その夜、わたしは、引き出しから、あの便りを、取り出した。
先生の名前が、小さな黒い枠のなかに、書いてあった。
七十八歳。
わたしは、それを、しばらく、見ていた。
先生を、恨んでいなかった。
恨んでいたのは、いつか、もっと前のことだ。
第五章 まだ止まる
先生が亡くなったと知った日、わたしは、泣かなかった。
代わりに、思った。
もう、いいのだと。
そう、胸の中で、言ってみた。
言ってみて、そのあとの、静けさを、聞いた。
あの作文のことは、とっくに、赦している。
三十を過ぎたころに、先生にも、先生の事情があったのだろうと、考えられるようになった。
あの教室は、笑いの多い教室だった。先生は、皆を笑わせるのが、好きな人だった。
だから、赦していた。
赦したのだから、体も、そのうち、止まらなくなると、思っていた。
赦せば、痛みも、終わるのだと。
でも、そうではなかった。
赦したのに、まだ痛い。
痛いのは、先生に対してではない。
あのとき、教室の前に、立たされた、十一のわたしだ。
わたしは、その子を、赦す側ではない。
赦した相手は、先生で、先生は、もういない。
赦しは、届かない。
謝られることも、もう、ない。
返してもらうものは、何も、ない。
返してもらうのを、やめたのが、赦すということだった。
それで、痛みは、減らなかった。
減ったのは、先生が、いつか、わかってくれるかもしれない、という、期待のほうだけだ。
止まるのをやめさせようとして、深く息を吸ってみたことがある。
呼び鈴が鳴る前から、吸っておく。
そうすると、却って、息が詰まった。
半年ほど試して、やめた。
止まるのを、やめさせるのを、やめた。
一拍のあいだ、胸が、冷たい。
その冷たさのなかに、あの日の教室が、ある。
もう少し、そこにいていい。
そう思っても、一拍は、消えなかった。
ただ、息を吐いたあとに、思うことが、変わった。
前は、「まだか」と思った。
いまは、「ああ、いたね」と思う。
エピローグ
呼び鈴が、ちん、と鳴った。
わたしは、一拍、止まった。
胸が、冷たくなって、それから、息を、静かに吐いた。
「はい」
窓口へ立っていくと、青年が、横の席から、こちらを、ちらりと見た。
わたしは、その目を、受けた。
それから、台の上の、真鍮の呼び鈴を、指先で、一度だけ、なでた。
用事のある方に、いつもの声で、「お待たせしました」と言って、申込書を、差し出した。
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