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0_二度目の鍵

夜中に酔って怒鳴った亡き父を赦した娘が、十七の秋から三十五年、毎晩玄関の鍵を二度回す。工事の人は、二度目は空回りだと告げた。赦しても、手がまだ続けている。赦しは完了しているのに、身体と手のほうがまだ続けている。痛みは減らず、減るのは期待だけ。

0_二度目の鍵

朗読で聴く

第一章 玄関

夜の九時を過ぎると、わたしは玄関の鍵を閉めに行く。

わたしは五十二になる。

眼科の受付に、二十六年、勤めている。

帰ってきて、夕飯を済ませて、洗いものをして、それから玄関に立つ。

いつも、同じ順番だ。

古い二階家で、玄関の戸は、引き違いのガラス戸になっている。

その内側に、真鍮の鍵が、一つ、ついている。

長く使われて、角が丸くなり、色は褐色に沈んでいる。

父の代から、ここに、ついている。

家のなかで、いちばん長く、同じ場所にいるものだと思う。

摘まみを右へ、ぐるりと、回す。

指先に、真鍮の冷たさが、ある。

冬は、とくに、冷たい。

かちり、と音がする。

掛かった。

それで、本当は、終わりのはずだ。

それが、普通の人の、一日の終わりだ。

けれど、わたしの手は、そこで止まらない。

もう一度、摘まみを左へ戻して、また、右へ回す。

かちり。

二度目の音は、一度目よりも、少し軽い。

空を回しているからだ。

二度回して、ようやく、手が離れる。

これを、三十五年、毎晩、やっている。

いつから、と聞かれたら、答えられる。

十七の秋からだ。

やめようと思ったことは、何度もある。

旅行に出るときも、友人の家に泊まるときも、夜になると、そわそわした。

鍵のないところでは、手の置き場が、ない。

けれど、手のほうが、先に、動いてしまう。

第二章 秋の夜

父は、わたしが十七の年に、よく酔って帰ってきた。

帰ってくる時刻は、決まっていなかった。

十一時のこともあれば、午前二時のこともあった。

玄関の戸を、乱暴に叩く。

叩く音で、その晩の父の具合が、わかった。

弱く叩く晩は、まだ穏やかだ。

強く叩く晩は、戸を開けた瞬間から、怒鳴り声になった。

何に怒っているのかは、わからなかった。

わたしの返事が遅いからだと言われた晩もあれば、鍵が掛かっているからだと言われた晩もある。

掛けておかなければ、怖かった。

けれど、掛けておくと、怒られた。

十七のわたしは、その二つのあいだで、毎晩、立っていた。

母は二階で、布団をかぶっていた。

階段の途中の、いちばん暗いところに、わたしは立っていた。

わたしの背中の気配は、二階まで届いていたと思う。

咎める気は、いまもない。母にも、母の怖さがあったのだと思う。

ある秋の夜、わたしは、鍵を二度、回してみた。

二度回せば、掛かったことが、確かになる気がした。

その晩、父の足音は、戸の前まで来て、しばらく止まった。

戸は、叩かれなかった。

父は、庭の縁側で、朝まで寝ていたらしい。

それだけの、ことだった。

それなのに、わたしの手は、その晩のことを、覚えてしまった。

二度回せば、守られる、と。

父は、わたしが四十二のときに、死んだ。

病院で、静かな、死に方だった。

最後の三年は、わたしが世話をした。

父は、もう怒鳴らなかった。

小さくなって、わたしの名前を、ときどき、間違えた。

間違えるたびに、わたしは、いいよ、と言った。

その言い方は、自分でも驚くほど、やさしかった。

第三章 回覧板

隣の家の奥さんは、わたしより二つ年上で、よく話しかけてくる。

回覧板を持ってくるのは、いつも、その人だ。

玄関先で、立ち話になる。

その人は、回覧板の回った日数を、手帳に書いている。

町内の誰の家で、何日止まったか、一年分、控えてある。

「一番遅いのは、角の家で、九日ですよ」と、その人は言う。

わたしは、「そうなんですか」と、答える。

わたしの家で止まるのは、いつも一日だ。

その人は、そのことを、褒めてくれる。

わたしは、回覧板が回った日数を、数えたことがない。

わたしが毎晩数えているのは、鍵を回す回数だ。

二回。

それだけで、一日の終わりが、決まる。

同じ玄関の前で、二人は、まったく別のものを数えていた。

その人は町の流れを、わたしは自分の夜を。

その人は、わたしの戸締まりを、ちゃんとしている家だと言う。

その言葉は、半分だけ、本当だ。

第四章 空回り

去年の暮れに、戸の錠が、固くなった。

摘まみが、途中で引っかかって、回しにくい。

それで、工事の人を呼んだ。

来たのは、わたしと同じ年ごろの、無口な男の人だった。

玄関の戸の内側を、しばらく、見ていた。

それから、鍵を一度、回した。

かちり、と掛かった。

もう一度、回した。

空を切る音がした。

男の人は、振り向いて、言った。

「この錠は、一度回せば掛かります。二度目は、空回りですよ」

悪気は、なかった。ただ、見たままを言った。

「ええ」と、わたしは言った。

「知っています」

男の人は、それ以上、何も聞かなかった。

新しい部品に替えて、また、一度回して見せた。

「これで、軽くなります」

帰り際に、玄関のたたきで、靴を履きながら、男の人は言った。

「うちの親父も、そうでしたよ。同じところを、二度。理由は、聞いたことが、ないですが」

それだけ言って、出ていった。

戸の閉まる音が、した。

わたしは、その場に、しばらく立っていた。

空回りだと、知っていた。

三十五年、知っていて、回していた。

第五章 そのまま

その夜も、鍵を、二度、回した。

新しい部品は、とても軽かった。

二度目は、ほとんど、音がしなかった。

部屋に戻って、湯を沸かして、わたしは考えた。

わたしは、父を赦している。

それは、本当だ。

父が死んだとき、わたしはもう、恨んでいなかった。

三年看取るうちに、恨みは、どこかで、ほどけていた。

おむつを替え、粥を炊き、爪を切った。

そのどれもに、恨みを、置く場所がなかった。

悪く言ったことも、ない。仏壇の前で、父の話を、普通にする。

だから、赦したのだから、手も、そのうち、忘れるだろうと思っていた。

赦せば、痛みも、終わるのだと。

でも、そうではなかった。

赦したのに、まだ痛い。

痛みは、父に向いていない。

戸の向こうの足音を、待っていた十七の自分の、体に残っている。

父は、もういない。

赦しは、父には、届かない。

謝られることも、これから先、一度もない。

返してもらえるものは、何もない。

返してもらうのを、やめた。

それが、赦すということだったのだと思う。

だから、痛みは、減らなかった。

減ったのは、もしかしたら父が違う顔で戻ってくるかもしれない、という、期待のほうだけだ。

手は、まだ、二度目を回す。

やめさせようとするのは、やめた。

二度目の鍵は、あの晩の自分が、まだ、玄関に立っている印だ。

もう少し、そこにいていい。

そう思っても、手は止まらなかった。

ただ、回すあとに、思うことが、変わった。

前は、「まだか」と思っていた。

いまは、「ああ、いたね」と思う。

エピローグ

夜の九時。玄関に立つ。

右へ回す。かちり。

左へ戻して、もう一度、右へ回す。軽い音が、した。

摘まみから手を離す前に、わたしは、真鍮のその丸い角を、親指で、一度だけ、なでた。

それから、玄関の電気を消して、廊下を戻った。

居間の仏壇の前で、立ち止まって、父の写真に、小さく頭を下げた。

線香は、立てなかった。ただ、手を合わせて、湯を沸かしに行った。

ソウルミッション358

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