いいんです、と言った
謝られたこと

朗読で聴く
第一章 半年目
芝田は五十六になった。
十八で高校を出て、町の電器店に勤めた。
配達と、店番と、修理の手伝いをした。
仕事は嫌いではなかった。
自転車で配達に回ると、町の家をひととおり覚えた。
どの家に誰がいて、どの家の犬が吠えるかまで分かるようになった。
あのまま続けていたら、いまも同じ町にいたと思う。
大久保は無口な人だった。
教え方も上手くはなかったが、手は抜かなかった。
半年で、配線の見方をひととおり覚えさせてもらった。
その半年を、悪い半年だったとは思っていない。
悪かったのは、終わり方だけだ。
半年目の秋に、店の売上が合わなくなった。
三日つづけて合わなかった。
主人の大久保は、店の奥に芝田を呼んだ。
心当たりはないか、と聞かれた。
ありません、と答えた。
大久保はしばらく黙っていて、それから、辞めてもらう、と言った。
証拠は無かった。
無かったが、こちらにも無かった。
やっていない、ということを見せるものが、何も無い。
もう一度、やっていません、と言った。
大久保は、うん、と言った。
うん、と言って、それで話は終わった。
その月の給料をもらって、店を出た。
十八の秋だった。
店を出るとき、大久保は奥から出てこなかった。
奥さんが表まで来て、気をつけて、と言った。
その言い方に、こちらを疑っている感じは無かった。
無かったが、止めてもくれなかった。
止められたら、こちらは残ったのだろうか。
残っても、疑われたまま働くことになる。
いま考えても、あの日にできたことは思いつかない。
できることが無かったのなら、悔いる筋合いも無いはずだ。
それでも三十八年、思い出している。
第二章 三十八年
その話を、芝田は誰にもしていない。
親にも言わなかった。
合わなかったから辞めた、とだけ言った。
妻にも言っていない。
結婚して三十年になるが、その半年のことは話に出したことがない。
隠しているつもりはなかった。
言う機会が、無かった。
言えば、なぜいま言うのかを説明することになる。
説明できるほど、こちらの中で片づいていなかった。
片づいていないものを人に話すと、相手が片づけようとする。
片づけようとされるのが、いちばん困る。
こちらは片づけたいのではなく、持っていたかったのだと思う。
その後は別の会社に入って、定年まで勤めた。
困ったことは、特に無かった。
ただ、人に疑われる場面が苦手になった。
お金の話になると、先に自分の財布を出す癖がついた。
三十八年、そうしてきた。
癖なので、直そうと思ったことも無い。
直す必要も無い。財布を先に出して困ることは、何も無い。
ただ、出しながら、毎回わずかに構えている。
その構えが、どこから来たのかは分かっている。
分かっているのに、抜けない。
第三章 いいんです
二年前の春に、知らない番号から電話があった。
大久保の娘だ、と名乗った。
父が会いたがっている、と言われた。
行くかどうかを三日考えて、行った。
大久保は八十二になっていた。
布団の上に座って、こちらを見て、名前を呼んだ。
それから、あのときは悪かった、と言った。
言葉ははっきりしていた。
用意してきた言い方だと分かった。
何度か口の中で繰り返したことのある人の言い方だった。
こちらにも覚えがある。
三十八年、同じことをしていた。
同じことをしていた者どうしが、あの日、部屋で向かい合っていた。
先に言ったのは、向こうだった。
先に言われると、こちらは受ける側になる。
受ける側の言葉は、たいてい短い。
芝田は、いいんです、と言った。
言ってから、しまった、と思った。
思ったときには、もう言い終わっていた。
いいんです、は考えて出した言葉ではない。
お金の話で先に財布を出すのと同じで、体のほうが先に出した。
大久保は、そうか、と言った。
その顔が、少し楽になったのが分かった。
楽にさせる気は無かった。
無かったのに、そうなった。
部屋を出るまでのあいだに、言い直す機会は何度かあった。
言い直さなかった。
言い直すと、いま楽になった人をもう一度きつくすることになる。
八十二の人に、それをする理由が見つからなかった。
第四章 箱
帰りぎわに、大久保の娘が箱を一つ持ってきた。
父からです、と言われた。
断る理由が思いつかなかったので、受け取った。
電車で膝の上に置いて帰った。
軽くはなかった。
膝の上で、角が当たった。
電車を降りるまで、ずっと同じところに当たっていた。
降りてからも、そこだけ少し痛かった。
家に着いて、玄関に置いた。
その日は開けなかった。
次の日も開けなかった。
二年たつ。
まだ開けていない。
置き場所も決まらない。
玄関に置いて、廊下に移して、押入れに入れて、また出した。
掃除のたびに動かしている。
どこに置いても、そこではない感じがする。
捨てられない。
開けられない。
置く場所が決まらないものが、家に一つある。
妻は一度だけ、それ何、と聞いた。
昔の勤め先の人から、と答えた。
それ以上は聞かれなかった。
聞かれていたら、三十八年ぶんを話したかもしれない。
聞かれなかったので、話していない。
第五章 言うつもりだった言葉
三十八年のあいだに、言うつもりでいた言葉があった。
考えたのは一度や二度ではない。
夜、寝る前に、順番まで考えたことがある。
言い方は年によって変わった。
二十代のころは、責める言い方だった。
四十を過ぎてからは、聞く言い方になった。
どうして私だと思ったのか、と聞くつもりだった。
答えを聞いて、それからどうするかは決めていなかった。
決めていないまま、三十八年持っていた。
持っているあいだ、その言葉は減らなかった。
使わないものは減らない。
減らないまま、使えなくなった。
持っているのに使えないものが、言葉と、箱と、二つになった。
あの日、いいんです、と言った時点で、その言葉は使えなくなった。
許すと言ってしまった相手に、いまさら聞けない。
聞けば、あの日の、いいんです、が嘘になる。
嘘ではなかった。
嘘ではなかったが、本当でもなかった。
あれは、その場をおさめる言葉だった。
その場は、おさまった。
おさめるべきだったのかどうかは、いまも分からない。
分からないので、繰り返し考えている。
考えるたび、同じところで止まる。
止まるのは、いいんです、と言った瞬間だ。
エピローグ
去年の秋に、大久保が死んだと聞いた。
娘から葉書が来た。
葬式には行かなかった。
行く立場かどうかが、分からなかった。
箱は、まだ玄関にある。
この一年で、二度動かした。
開ける気は、いまも無い。
中に何が入っているかを考えることはある。
お金かもしれないし、詫び状かもしれないし、当時の帳面かもしれない。
何が入っていても、こちらの言葉は戻ってこない。
戻ってこないものの代わりに、箱がある。
代わりになっていないことは、こちらが知っている。
知っていて、置いている。
置いてある場所は、いま玄関の隅だ。
来月には、また別のところに移っていると思う。
置き場所が決まらないのは、たぶん、そのせいだ。
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