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9_黒板拭き

閉じた小さな学校の黒板を、八年、毎朝拭いてきた者に、元の同僚は、この学校はもう再開しない、来年には取り壊されると告げた。誰が座るのかも知らないまま、それでも拭く。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

9_黒板拭き

朗読で聴く

第一章 朝のチョークの粉

山の村の、行き止まりの、小さな学校に、毎朝、通っている。

村の道は、学校の前で、ぷつりと、終わる。

その先は、杉の山が、まっすぐ、立っている。

朝は、山の霧が、校舎の屋根まで、降りてくる。

わたしは六十八になる。

学校は、八年前に、閉じた。

子どもが、いなくなったからだ。

最後の年の、生徒は、三人だった。

三人は、いつも、同じ席に、座った。

いちばん小さな子は、足が、床に、届かなかった。

わたしは、その学校に、四十年、勤めていた。

閉じたあとも、校舎は、そのまま、残っている。

鍵は、まだ、持っている。

役場に、頼まれたわけではない。

校舎の管理は、役場の、仕事になった。

けれど、役場の人は、月に一度、外から、見に来るだけだ。

ただ、返しそびれた。

毎朝、六時半に、家を出る。

やまみちを、ゆっくり、歩く。

道の脇の、苔むした、石の地蔵に、毎朝、小さく、頭を下げる。

地蔵の前掛けは、色が、褪せている。

校門の、錆びた、鍵を、開ける。

校庭を、横切る。

昇降口から、廊下に、入る。

廊下の、突き当たりの、いちばん奥の、教室に、行く。

教室の、前の壁には、大きな、黒板が、ある。

黒板は、緑色で、右の隅が、少し、剥げている。

剥げたところは、昔、生徒が、爪で、引っかいたところだ。

その生徒の顔を、わたしは、まだ、覚えている。

その下の、溝に、黒板拭きが、一つ、のっている。

わたしは、その黒板拭きを、手に取る。

まず、上の隅から、横に、ゆっくり、引く。

力を、入れすぎない。

拭いた跡に、薄い、白い、筋が、残る。

それを、縦に、拭いて、消す。

右から、左へ、一段ずつ、下がる。

黒板の、全面を、拭くのに、五分、かかる。

拭き終えたら、黒板拭きを、窓の外で、叩く。

窓の木枠は、湿って、少し、膨らんでいる。

開けるときに、きしんだ音が、校舎じゅうに、響く。

白い粉が、朝の光の中に、ふわりと、舞う。

それから、黒板拭きを、溝に、戻す。

八年、毎朝、そうしてきた。

第二章 右の肩

体は、黒板拭きに、合わせて、できた。

右の肩が、いつも、少し、上がっている。

腕を、高く、上げて、横に、引く動作を、八年、くり返した。

それより前の、四十年、教室で、同じ動作を、していた。

合わせて、四十八年。

肩の骨は、その動きの形に、なっている。

目は、黒板の、緑に、合わせて、できた。

緑の色の、わずかな違いが、わかる。

拭いたばかりの、黒板は、濃い緑。

乾いてくると、薄い緑に、なる。

その変化を、わたしは、四十八年、見てきた。

鼻は、チョークの粉に、合わせて、できた。

粉が、舞うと、くしゃみが、出る。

その、小さなくしゃみを、わたしは、八年、毎朝、している。

教室は、静かだ。

窓から入る、朝の光が、机の天板に、白い、四角を、作る。

四角は、少しずつ、床へ、降りていく。

机と、椅子は、きちんと、並んだままだ。

誰も、座らない。

それでも、わたしは、毎朝、机と机の間の、通路を、まっすぐ、歩く。

歩くときに、足が、勝手に、教卓の前で、止まる。

四十年、そこに、立って、話していた。

体は、その位置を、覚えている。

第三章 役場が数えているもの

村の、役場には、人口を、数える人が、いる。

村の、人の数。

毎月、役場の掲示板に、貼り出される。

「今月は、百四十二人です」と、役場の人は、言う。

わたしは、「少なくなりましたね」と、答える。

本心だ。

山の村は、静かに、小さく、なっている。

わたしは、何も、数えていない。

黒板を、何回、拭いたかは、数えたことがない。

八年で、二千九百回と少しだろうか。いま、初めて、計算した。

二千九百回、黒板を、拭いて、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

黒板は、拭いても、拭かなくても、翌日には、また、白く、粉を、かぶる。

同じ村に、暮らす二人が、まったく別のものを、数えていた。

役場の百四十二人は、村の、これからを、表している。

わたしの二千九百回は、誰も、頼んでいない。

役場の人は、学校の、校舎の前を、通っても、窓の中を、のぞかない。

窓の中の、黒板が、毎朝、きれいに、拭かれていることを、知らない。

知らなくても、困らない。

第四章 再開しません

去年の秋、元の同僚が、訪ねてきた。

隣の町の、学校に、勤めていた人で、いまは、定年を、迎えている。

やまみちを、上がってきて、息を、切らしていた。

わたしは、教室で、黒板を、拭いている、途中だった。

同僚は、廊下から、わたしの背中を、しばらく、見ていた。

廊下の床板が、同僚の足の下で、小さく、鳴った。

それは、昔、子どもたちが、走るたびに、鳴った、音と、同じだった。

それから、言った。

「まだ、やっているんですね」

わたしは、「ええ」と、答えた。

同僚は、窓の外の、校庭を、見ながら、続けた。

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「この学校は、もう、再開しませんよ」

「県の計画で、決まっています。来年には、校舎も、取り壊されます」

わたしは、黒板拭きを、持ったまま、聞いていた。

「ですから、掃除は、もう、結構です。誰も、使わないんですから」

同僚は、静かに、そう言って、頭を、下げた。

「いつも、ありがとうございました」

それは、過去の、言い方だった。

同僚は、帰っていった。

教室の、窓から、校庭の、桜の木が、見えた。

葉は、赤く、色づいて、風に、揺れていた。

第五章 要らない

その夜、わたしは、家で、一人、湯を、沸かした。

湯気が、窓ガラスを、曇らせた。

曇ったガラスに、指で、何も、書かなかった。

同僚の言葉を、思い出した。

再開しません。

取り壊されます。

誰も、使わない。

それなら、わたしの八年は、何だったのだろう。

誰の、教室なのか。

誰も、座らない、教室の、黒板を、毎朝、拭いても、何も、変わらない。

わたしは、もう、鍵を、返すべきなのかも、しれない。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

翌朝も、六時半に、家を出た。

校門の鍵を、開けた。

校庭を、横切った。

廊下の、突き当たりの、教室に、入った。

黒板拭きを、溝から、取った。

上の隅から、横に、ゆっくり、引いた。

いつか、この教室に、また、誰かが、座るのかどうかは、知らない。

それが、誰なのかも、知らない。

その人は、拭かれた黒板を、見て、そこに、かつて、誰かの、手が、あったことを、知らないまま、白い、チョークを、握るだろう。

それだけで、いい。

要らない。

それでも、わたしは、拭き続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この五分に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

拭き終えた。

窓を、少し、開けて、外で、黒板拭きを、叩いた。

白い粉が、朝の光の中に、舞った。

それが、静かに、校庭に、落ちていくのを、見た。

黒板拭きを、溝に、戻した。

それから、わたしは、教卓の前に、立って、誰もいない、机の列を、一度、端から端まで、見渡した。

一礼は、しなかった。

ただ、小さく、頷いて、教室の戸を、静かに、閉めた。

ソウルミッション358

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