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8_障子を張る

誰も住まない家の障子を、十年、毎春張り替えてきた者に、仲介の人は、次に住む方は決まっていないと告げた。誰が住むのかも知らないまま、それでも張る。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

8_障子を張る

朗読で聴く

第一章 糊と刷毛

海沿いの、小さな集落の、はずれに、誰も住んでいない家が、一軒、ある。

家は、石垣の、上に、建っている。

石垣の隙間から、磯の草が、細く、伸びている。

風が、強い日は、家全体が、小さく、鳴る。

わたしは五十四になる。

その家の、持ち主では、ない。

鍵も、預かっていない。

ただ、縁側の、雨戸が、少し、壊れていて、外から、障子に、手が、届く。

わたしは、毎年、春の、はじめに、その家の、障子を、張り替える。

糊と、刷毛と、新しい紙を、持って、家に、行く。

縁側に、座る。

縁側の板は、潮に、洗われて、白くなっている。

座ると、冷たさが、じんと、膝に、伝わる。

古い紙を、まず、剥がす。

剥がした紙は、黄ばんで、ところどころ、破れて、潮の匂いが、する。

破れの形は、毎年、違う。

風と、雨の、癖が、そこに、残っている。

桟に、残った、古い糊を、湿らせた、布で、拭き取る。

拭き終えたら、桟に、糊を、薄く、塗る。

桟は、細くて、黒く、艶がある。

何十年もの、手の脂で、磨かれた色だ。

わたしは、その脂の上に、新しい糊を、置く。

糊は、薄くなければ、いけない。

糊は、前の晩に、小麦の粉を、水で、溶いて、煮ておく。

冷めると、少しだけ、艶が、出る。

厚いと、紙が、波打つ。

新しい紙を、端から、そっと、のせる。

のせたら、手のひらで、軽く、撫でる。

紙は、薄い。

破れそうな気がして、いつも、息を、止める。

空気を、抜くように。

皺は、中心から、外へ、逃がす。

十二枚の障子を、張る。

一枚に、三十分かかる。

六時間で、終わる。

昼の弁当は、縁側の、端に、座って、食べる。

潮の音を、聞きながら、おにぎりを、一つ、食べる。

張り終えた障子は、まだ、湿っている。

乾くと、紙が、ぴんと、張る。

その、張り詰めた、音を、わたしは、毎年、聞く。

十年、毎春、そうしてきた。

その家の、最後の住人が、亡くなった、翌年からだ。

葬式の日、縁側の障子が、風に、半分、めくれていた。

それを、わたしは、通りがかりに、見てしまった。

第二章 掌と膝

体は、障子に、合わせて、できた。

右の手のひらが、紙を撫でる、動きで、少し、柔らかくなった。

爪は、糊で、いつも、少し、白い。

石鹸で、洗っても、爪の際に、糊が、残る。

膝は、縁側の、板の上で、座る形に、固くなった。

長く、正座を、すると、膝の内側が、痛む。

それでも、障子を、張るときは、正座で、張る。

目は、紙の、皺に、合わせて、できた。

とても細い、波打ちが、見える。

窓の光が、斜めから、差すと、その波が、影になって、浮かぶ。

その影を、見つけて、手のひらで、押さえる。

障子を、張る仕事は、集落の、誰も、頼んでいない。

集落の人は、みな、そのことを、知らない。

知らなくても、困らない。

誰の家でも、ない。

誰の持ち物でもない。

ただ、わたしが、勝手に、やっている。

わたしは、この家の、障子が、破れたまま、風に、吹かれているのを、見るのが、いやだった。

それだけが、最初の理由だった。

最初の理由は、いつのまにか、理由では、なくなった。

第三章 管理の人が数えているもの

集落の、見回りをする、管理の人が、いる。

月に一度、集落を、歩いて、空き家の数を、数えている。

「今年は、二十三戸に、なりました」と、言う。

わたしは、「増えましたね」と、答える。

本心だ。

集落は、少しずつ、静かに、なっている。

わたしは、何も、数えていない。

障子の枚数は、十二枚。

それ以外の数字は、持っていない。

十年で、百二十枚を、張った。いま、初めて、計算した。

百二十枚張って、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

家は、誰も住まないまま、年を、とる。

同じ集落に、暮らす二人が、まったく別のものを、数えていた。

管理の人の二十三戸は、集落の、行く末を、表している。

管理の人は、小さな、手帳を、持っている。

手帳の端が、潮で、波打っている。

わたしの百二十枚は、誰も、頼んでいない。

管理の人は、その家の障子が、毎年、新しくなっていることに、気づいていない。

気づかれないことを、わたしは、少しも、残念に、思っていない。

第四章 決まっていません

去年の春、不動産の、仲介の人が、その家の、前に、来た。

若い人で、鞄を、さげていた。

わたしは、縁側で、障子を、張っている、途中だった。

その人は、門の前で、立ち止まって、わたしの手元を、見た。

それから、言った。

「失礼ですが、こちらの、関係の方ですか」

わたしは、「いいえ」と、答えた。

その人は、少し、驚いた顔を、した。

それから、頭を、下げた。

「そうですか。実は、この家の、買い手を、探しているのですが」

仲介の人は、鞄から、書類を、出した。

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「次に、お住まいになる方は、まだ、決まっていません」

「いつ、決まるかも、わかりません」

「決まらないまま、取り壊すかも、しれません」

わたしは、「そうですか」と、答えた。

仲介の人は、続けた。

「障子が、きれいなので、きっと、誰かが、手入れを、しているのだろうと、思いました」

「ただ、買い手が、つくかどうかは、障子とは、関係なくて」

わたしは、頷いた。

仲介の人は、礼をして、帰っていった。

革靴の音が、石垣の道に、小さく、響いた。

その音は、すぐに、波の音に、まぎれた。

門の外の、潮風が、障子の紙を、少し、鳴らした。

紙は、ぴんと、張って、小さな、太鼓のように、鳴った。

第五章 要らない

その夜、わたしは、家で、一人、茶を、飲んだ。

仲介の人の、言葉を、思い出した。

次に、住む人は、決まっていません。

それなら、わたしの十年は、何だったのだろう。

誰のための、障子なのか。

誰も、住まない、家の、障子を、毎年、新しくしても、何も、変わらない。

わたしは、来年から、やめるべきなのかも、しれない。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

わたしは、翌日も、あの家へ、行った。

縁側に、座った。

今年の障子は、すでに、張り終えて、ぴんと、していた。

わたしは、その張った紙の、表面を、指先で、そっと、なぞった。

紙は、冷たく、乾いていた。

誰が、住むのかは、知らない。

いつ、来るのかも、知らない。

その人は、障子を、開けるときに、きっと、その紙が、新しいことを、知らないで、手を、かける。

それだけで、いい。

要らない。

それでも、わたしは、続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この六時間に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

縁側の、板の上に、刷毛と、糊の入れ物を、並べた。

障子の桟を、一本ずつ、指で、なぞって、糊の残りが、ないのを、確かめた。

それから、縁側から、庭に、降りた。

家の、前の道に、立って、障子の、並ぶ、縁側を、もう一度、見た。

白い紙が、春の光を、柔らかく、返していた。

わたしは、刷毛を、布で、拭いて、道具を、まとめた。

それから、潮の匂いのする、細い道を、自分の家のほうへ、ゆっくり、歩いて帰った。

ソウルミッション358

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