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7_欄干の油

誰も渡らない古い橋の欄干に、十二年、毎秋油を塗ってきた者に、役場の人は、この橋は来年から使われないと告げた。渡る人が現れるかどうかも知らないまま、それでも塗る。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

7_欄干の油

朗読で聴く

第一章 秋の刷毛

谷あいの町の、はずれに、古い木の橋が、ある。

町は、両側を、杉の山に、挟まれている。

朝の日が、谷に、さすのは、遅い。

そのぶん、夕方の光は、いつまでも、残る。

わたしは六十一になる。

橋は、細い川に、かかっている。

川の水は、澄んでいて、底の石が、一つずつ、見える。

夏は、小さな魚が、群れる。

秋は、赤い葉が、水面を、すべっていく。

長さは、十歩ほどだ。

幅は、人が二人、すれ違える、ほどしか、ない。

橋の先は、荒れた、細い道に、なっている。

その道を、通る人は、ほとんど、いない。

橋の手前の、道には、新しい、広い橋が、できた。

人は、みな、そちらを、渡る。

新しい橋は、鉄と、石でできている。

朝夕は、荷を積んだ車も、人も、ひっきりなしに、通る。

古い橋を、渡る人は、もう、いない。

それでも、わたしは、毎年、秋になると、その橋の、欄干に、油を、塗る。

刷毛と、油の缶を、持っていく。

缶は、錆びて、蓋のふちが、歪んでいる。

開けるには、小さな匙の背を、差し込んで、ひねる。

橋の、たもとに、しゃがむ。

欄干の、いちばん端から、塗りはじめる。

油は、薄い、茶色で、とろりと、している。

木の目に、沿って、刷毛を、ゆっくり、引く。

目に、逆らわない。

木は、油を、吸って、色が、深くなる。

手すりの上面と、側面と、支柱の、根元まで、順に、塗っていく。

橋の、向こう端まで、塗り終えるのに、二日かかる。

一日目は、手前の半分。

二日目は、残りの半分。

一日で、やろうと、すると、手が、荒くなる。

塗り終えたあと、刷毛を、布で、拭く。

拭いた布は、油で、重くなる。

その重さが、毎年、少しずつ、違う。

木が、よく吸った年は、布が、軽い。

十二年、毎秋、そうしてきた。

第二章 掌の木目

体は、刷毛の動きに、合わせて、できた。

右の手のひらが、刷毛の柄の、形に、へこんでいる。

手のひらを、開くと、細長い、浅い溝が、ある。

秋になると、その溝が、油の匂いを、帯びる。

わたしは、その匂いを、かぐと、ほっとする。

家の中でも、その匂いが、ほのかに、した。

上着の袖にも、髪にも、残っている。

膝は、橋の板に、合わせて、できた。

しゃがんだまま、横に、すり足で、動く。

その動き方が、癖になった。

橋の上以外でも、わたしは、低い場所に、物を、置くとき、すり足で、動く。

目は、木目に、合わせて、できた。

長い、うねるような、線と、それを、横切る、小さな、節。

木の目を、見ると、その木が、どちらから、日を、受けていたかが、わかる。

橋の木は、南の斜面で、育った木だ。

木の、年輪の、間隔が、均等で、細かい。

ゆっくり、時間をかけて、育った木だ。

そのことを、橋の人には、誰にも、教えていない。

教える人も、ここには、いない。

わたしは、毎秋、この橋の、木と、少しずつ、話をしている。

話といっても、言葉は、ない。

刷毛を、引く。

木が、色を、返す。

それだけだ。

第三章 役場の人が数えているもの

町の、役場に、勤める人が、いる。

その人は、橋を、渡る人の数を、数えている。

その人は、毎朝、橋のたもとの、小さな小屋に、座る。

手に、小さな、押し数の道具を、持っている。

橋ごとに、小さな、記録の係が、ある。

一年に、何人、通ったか。

年の終わりに、まとめて、帳簿に、書く。

「新しい橋は、一日に、およそ、八百人です」と、言う。

わたしは、「そうですか」と、答える。

本心だ。

新しい橋が、よく、使われるのは、いいことだ。

わたしは、何も、数えていない。

刷毛を、何回、引いたかは、数えたことがない。

十二年で、何度、油を、塗ったかは、計算すれば、わかる。

橋全体を、二日で、塗る。

年に一度。十二回。

十二回で、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

橋は、渡られないまま、年を、とる。

同じ町に、暮らす二人が、まったく別のものを、数えていた。

役場の八百人は、町の、暮らしを、表している。

わたしの十二回は、誰も、頼んでいない。

役場の人は、古い橋のほうの、数字を、ほとんど、見ない。

一年に、数人。

その数人は、おそらく、迷い込んだ人だ。

第四章 使われません

去年の秋、役場の人が、古い橋に、来た。

若い人で、書類の束を、持っていた。

わたしは、欄干に、刷毛を、引いている、途中だった。

その人は、橋の手前で、立ち止まって、わたしの手元を、見た。

それから、言った。

「毎年、塗って、くださっているんですね」

わたしは、「ええ」と、答えた。

役場の人は、書類を、めくりながら、続けた。

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「この橋は、来年から、正式に、使われません」

「老朽化して、危険なため、通行は、禁止に、なります」

「その後、撤去か、保存かは、まだ、決まっていません」

わたしは、刷毛を、持ったまま、聞いていた。

「ですので、お手入れは、もう、結構です」

役場の人は、静かに、そう言って、頭を下げた。

「いつも、ありがとうございました」

それは、過去の、言い方だった。

役場の人は、帰っていった。

橋の、向こうの、細い道に、赤い、落ち葉が、積もっていた。

橋の下で、川が、浅く、鳴っていた。

川の音は、橋の板を、通して、足の裏に、伝わってきた。

第五章 要らない

その夜、わたしは、家で、一人、湯に、足を、浸けた。

役場の人の、言葉を、思い出した。

来年から、使われない。

誰も、渡らない。

渡らない橋の、欄干に、油を、塗っても、何も、変わらない。

わたしは、もう、刷毛を、握るべきでは、ないのかも、しれない。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

翌朝、わたしは、刷毛を、持って、橋に、行った。

途中で、止まっていた、欄干の、続きに、しゃがんだ。

木の目に、沿って、刷毛を、引いた。

油が、木に、染みていく。

橋を、渡る人は、いなかった。

刷毛の先から、油が、一滴、板に、落ちた。

落ちた油は、板の目に、細く、染みていった。

これから、渡る人が、現れるのか、どうかも、わからない。

誰が、渡るのかも、知らない。

渡る人が、いつか、現れるとして、その人は、この欄干が、塗られていることを、知らないままに、手を、かけるだろう。

その人の手が、この木に、触れたときに、湿った、かすかな、油が、手に、つく。

それだけで、いい。

要らない。

それでも、わたしは、塗り続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この二日に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

二日目の、夕方に、塗り終えた。

橋の、向こうの端まで、欄干が、油で、濡れて、光っていた。

わたしは、刷毛を、布で、拭いた。

布は、油で、重かった。

橋の、真ん中に、立った。

足の下の、板が、わずかに、鳴った。

川の、水の音が、下から、聞こえた。

わたしは、橋の、いちばん端の、支柱に、そっと、手のひらを、あてた。

それから、刷毛と、缶を、持って、元の道へ、引き返していった。

ソウルミッション358

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