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6_鎖の油

孫が乗らなくなった古い自転車の鎖に、五年、毎月油をさしてきた祖父に、孫は、それもう乗らないよと言った。それでも油をさす。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

6_鎖の油

朗読で聴く

第一章 月に一度

海辺の町の、小さな家の庭の隅に、古い自転車が、一台、ある。

庭の先は、すぐ、堤防だ。

堤防の向こうから、潮の音が、絶え間なく、聞こえる。

庭の土は、砂が混じって、白っぽい。

わたしは七十二になる。

その自転車は、孫のものだ。

孫は、十七になる。

赤い塗りが、ところどころ、剥げて、錆の色が、のぞいている。

ハンドルの握りの、ゴムは、少し、ひび割れている。

サドルは、日に焼けて、色が、薄くなった。

孫が、八つのときに、わたしが、買ってやった。

それから、九年になる。

孫は、もう、その自転車に、乗らない。

乗らなくなったのは、中学に、上がった春からだ。

孫は、何も、言わなかった。

わたしも、何も、聞かなかった。

庭の隅の、物置の庇の下に、立てかけてある。

雨は、庇が、受けてくれる。

けれど、潮風だけは、防げない。

それでも、わたしは、毎月、最初の日曜に、その自転車の、鎖に、油を、さす。

小さな、錆びた缶の、油差しを、持つ。

自転車の脇に、しゃがむ。

まず、古い布で、鎖の汚れを、拭く。

布は、亡くなった妻の、古い、浴衣を、裂いたものだ。

柔らかく、油を、よく、吸う。

拭き終えたら、鎖を、手でまわして、一周ぶん、油を、さす。

油は、一滴ずつ、鎖の関節に、落とす。

ぽたり、ぽたりと、一つ、落とすごとに、鎖を、ほんの少し、まわす。

油は、琥珀色で、光に、透ける。

一滴ごとに、鎖の関節が、濡れて、一瞬、光る。

一周に、二百近い関節がある。

そのすべてに、油を、さすわけではない。

三つに、一つ。

それで、鎖は、よく、まわる。

最後に、ペダルを、手でまわして、音を、聞く。

かり、かり、かり、と、乾いた音がしたら、また、さす。

音は、小さい。

海の風が、強い日は、ほとんど、聞こえない。

音が、しなくなったら、おしまいだ。

静かな、鎖の回る音は、いい音だ。

まるで、自転車が、息をしているようだ。

十五分で、終わる。

五年、月に一度、そうしてきた。

孫が、乗らなくなった、その月からだ。

最後に、孫が、その自転車で、出かけた日は、雨だった。

濡れて、帰ってきた鎖を、わたしは、黙って、拭いた。

第二章 膝と指

体は、油差しに、合わせて、できた。

右の膝が、しゃがむ姿勢で、固くなった。

庭の石の上で、片膝をつく。

その姿勢を、五年、月に一度、くり返した。

整形外科の先生に、「膝が、あまり、曲がりませんね」と、言われた。

先生は、若い人で、白衣の袖から、細い手首が、のぞいていた。

わたしは、「庭いじりで」と、答えた。

うそではない。

けれど、自転車の鎖のことは、言わなかった。

指は、油に、合わせて、できた。

右の人差し指の腹が、いつも、うっすら、黒い。

石鹸で、洗っても、爪の際に、油の色が、残る。

孫の母である、娘は、わたしの手を見て、「また、油ね」と、笑う。

わたしは、「そうだな」と、答える。

鼻は、油の匂いに、合わせて、できた。

鉄と、油と、潮風が、混ざった、匂いが、わかる。

その匂いを、かぐと、孫が、八つの夏の、庭が、よみがえる。

あの夏、孫は、自転車に、まだ、うまく、乗れなかった。

わたしは、後ろから、サドルの後ろを、支えて、一緒に、走った。

何度も、転んだ。

最後に、孫が、一人で、庭の端まで、走りきった。

あのときの、油の匂いを、わたしは、まだ、覚えている。

第三章 娘が数えているもの

娘は、孫の成績を、数えている。

娘は、市役所で、働いている。

家に帰ると、まず、台所の、灯りを、つける。

週に一度、孫が、学校から持ち帰る、通知の紙を、見る。

「今回は、前より、三つ、上がった」と、言う。

わたしは、「そうか」と、答える。

本心だ。

娘は、よく、孫を、見ている。

孫が、風邪を、ひくと、娘は、夜中でも、起きている。

孫は、頭が、いい。

わたしは、何も、数えていない。

油を、何滴、さしたかは、数えたことがない。

五年で、六十回ほどだろうか。いま、初めて、計算した。

六十回さして、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

自転車は、庭の隅で、立っているだけだ。

同じ家に出入りする、わたしと、娘が、まったく別のものを、数えていた。

娘の三つは、孫の未来の、証だ。

わたしの六十回は、誰にも、頼まれていない。

一度、娘に、言われたことがある。

「お父さん、あの自転車、そろそろ、処分しようか」

わたしは、「ああ」と、答えた。

けれど、翌月の、最初の日曜に、また、油を、さした。

第四章 もう乗らないよ

先月の、最初の日曜に、孫が、庭に、出てきた。

背が、わたしより、ずいぶん、高くなっていた。

肩の線が、父親に、よく、似ていた。

声も、いつのまにか、低くなっていた。

わたしは、いつものように、自転車の脇に、しゃがんでいた。

孫は、しばらく、後ろに、立って、見ていた。

それから、言った。

「じいちゃん、それ、もう、乗らないよ」

わたしは、手を止めた。

孫は、悪気なく、続けた。

「俺、もう、あの自転車、小さいし。高校に、行くのも、別の乗り物だし」

孫は、事実を、言っただけだ。

「だから、油、さしても、意味、ないと思う」

わたしは、「そうか」と、答えた。

孫は、「じゃあ」と、言って、家に、戻っていった。

背中が、大きかった。

わたしは、油差しを、持ったまま、庭に、しゃがんでいた。

庭の隅の、紫陽花が、枯れた色の、花を、まだ、つけていた。

その日の、鎖は、まだ、半分も、さしていなかった。

海の方から、風が、吹いた。

鎖の関節が、小さく、かりかり、と、鳴った。

第五章 要らない

わたしは、しばらく、そのまま、いた。

孫の言葉が、耳に、残っていた。

乗らない。

意味、ない。

そのとおり、なのだ。

自転車は、乗られるために、油が、いる。

乗られない自転車の鎖に、油を、さしても、何も、変わらない。

わたしは、油差しを、置くべきなのかも、しれない。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

わたしは、油差しを、もう一度、手に取った。

鎖の関節に、油を、一滴、落とした。

ぽたり。

鎖を、ほんの少し、まわした。

もう一滴、落とした。

孫のために、さしているのでは、なかった。

自転車のためでも、なかった。

あの夏の、庭の端に、孫が、一人で、走りきった、その瞬間に、わたしは、もう一度、手を、のばしている。

その手が、いまも、油を、さしている。

要らない。

それでも、わたしは、続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この十五分に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

油を、さし終えた。

ペダルを、手で、まわした。

かり、かり、と、小さな音がした。

もう一滴、さした。

音が、しなくなった。

わたしは、古い布で、鎖の外側を、拭いた。

それから、自転車を、物置の庇の下の、元の位置に、そっと、立てかけた。

庭の石の上に、膝を、つけたまま、わたしは、深く、息を、はいた。

翌月の、最初の日曜の、朝のために、油差しの缶の、蓋を、きつく、閉めた。

ソウルミッション358

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