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5_竹の箒

隣の老人に、頼んでいないと言われても八年、毎朝老人の家の前の道を掃いてきた男に、老人は、道のものが夜のうちにきれいにするので昼には同じだと告げた。それでも掃く。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

5_竹の箒

朗読で聴く

第一章 隣の門の前

坂の途中の、小さな家に、住んでいる。

わたしは五十九になる。

家の前の道は、緩やかな坂で、先に、石の階段が、ある。

坂の上のほうに、隣の家が、ある。

隣の家の門は、古い、木の門だ。

門柱の苔は、季節ごとに、色を変える。

いまは、深い、緑だ。

隣には、八十を過ぎた、老人が、一人で、住んでいる。

わたしは、毎朝、六時に、起きる。

台所で、湯を沸かして、一口だけ、飲む。

それから、玄関で、靴の紐を、結ぶ。

玄関の脇に、竹の箒が、立てかけてある。

それを、持って、家を出る。

箒の柄は、八年で、手の汗に、染みて、飴色になった。

自分の家の前を、掃く。

それから、坂を、少し、のぼって、隣の家の、門の前を、掃く。

自分の家の前より、隣の家の前のほうが、いつも、落ち葉が、多い。

風が、坂を、のぼって、そこに、たまるのだ。

門の前から、石の階段の、てっぺんまで、約二十歩ぶんだ。

階段は、苔で、緑に、染まっている。

雨の日は、滑りやすい。

そういう日は、箒の穂で、苔の筋を、そっと、なぞる。

箒の穂を、道に、斜めに、当てる。

手首を、返さずに、腕全体で、ゆっくり、引く。

落ち葉。砂。小さな、枯れ枝。

秋の朝は、桜の葉が、多い。

冬の朝は、松の針が、多い。

春は、花びらで、道が、うっすら、白くなる。

それを、道の端に、寄せる。

寄せたものを、塵取りに、集める。

塵取りは、ブリキで、取っ手が、少し、曲がっている。

曲がり具合が、わたしの手に、ちょうど、いい。

十五分で、終わる。

掃き終えたあとの道は、うっすら、湿った、地面の色を、している。

箒の穂の跡が、細い筋に、なって、残る。

その筋の上を、郵便の配達の人の自転車が、通っていく。

筋は、一瞬で、消える。

消えても、わたしは、構わない。

八年、毎朝、そうしてきた。

第二章 箒の穂先

体は、箒に、合わせて、できた。

腰は、箒の柄の、長さに、合わせて、少し、立っている。

箒を持つと、背筋が、自然に、伸びる。

右の肩が、左より、少し、上がっている。

箒を、引く、腕の動きが、癖に、なった。

歩くときも、右の腕だけ、少し、遅れて、振れる。

妻には、「歩き方が、変」と、言われた。

わたしは、「箒の癖だ」と、答えた。

うそではない。

けれど、その箒が、頼まれていないことだとは、言わなかった。

目は、落ち葉に、合わせて、できた。

小さな枯れ葉が、道の隅に、挟まっているのを、遠くからでも、見つける。

その目は、散歩のときにも、出る。

隣の家の、門の下に、一枚だけ、落ちている葉を、見つけて、無意識に、拾ってしまう。

箒は、竹だ。

毎年、春に、新しい穂に、取り替える。

新しい穂は、固くて、道に、よく、くいつく。

古い穂は、先が、細く、丸くなる。

どちらも、わたしの手は、好きだ。

ただ、箒の穂が、八年で、八回、変わっても、隣の老人は、一度も、気づいていない。

第三章 老人が数えているもの

隣の老人は、雨の日の数を、数えている。

老人は、昔、農家だった。

雨の日を数える癖は、そのころの、名残だと、思う。

縁側に、小さな帳面が、置いてある。

雨が降った日に、丸を、つける。

月の終わりに、数えて、「今月は、八日だ」と、言う。

わたしは、「少なかったですね」と、答える。

本心だ。

老人は、妙に、そういうことに、詳しい。

わたしは、何も、数えていない。

箒を、何回、引いたかは、数えたことがない。

八年で、二千九百日と少しだろうか。いま、初めて、計算した。

二千九百日掃いて、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

道は、掃いても、掃かなくても、昼には、また、葉が落ちる。

同じ坂に、住む二人が、まったく別のものを、数えていた。

老人の八日は、天気の、記録だ。

わたしの二千九百日は、無くても、老人は、困らない。

一度、老人に、言われたことがある。

「あんた、毎朝、何してるんだ。頼んでないぞ」

わたしは、「はあ」と答えた。

老人は、「頼んでないからな」と、もう一度、言って、家に、入った。

戸が、閉まる、音がした。

第四章 昼には同じ

去年の秋、老人が、門のところに、出てきた。

朝の光が、老人の、白い眉を、照らしていた。

わたしが、箒を、引いているのを、しばらく、黙って、見ていた。

それから、言った。

「あんた、道のものが、掃いてくれるのを、知らないのか」

わたしは、手を、止めた。

「道は、夜のあいだに、道のものが、きれいにする。昼には、もう、同じだよ」

老人は、悪気なく、言った。

事実を、言っただけだ。

「あんたが、朝に、掃いても、掃かなくても、昼には、同じ道だ」

わたしは、「そうですか」と、答えた。

老人は、続けた。

「頼んでないと、言ったのは、そういう、意味だ。礼を言う場所が、ないんだよ」

老人は、門を、閉めた。

それきり、何も、言わなかった。

わたしは、箒を、持ったまま、坂の途中に、立っていた。

道は、朝の光を、受けて、ところどころ、白かった。

霜が、まだ、溶けずに、残っていた。

足を、置くと、きゅっと、鳴った。

掃いても、掃かなくても、同じ。

老人の言うことは、おそらく、本当なのだ。

夜のあいだに、道は、きれいに、整えられている。

わたしの箒が、掃くのは、整えられた、あとの、わずかな、落ち葉だけだ。

その落ち葉も、昼には、また、落ちる。

第五章 要らない

翌朝も、六時に、起きた。

玄関の脇の、箒を、見た。

持つのを、やめようかと、思った。

老人は、要らないと、言っている。

道も、要らないと、言っている。

わたしの手は、どこにも、必要とされていない。

それなのに、わたしの手は、箒の柄を、握っていた。

握ったまま、家を出た。

外の空気は、肌に、突き刺さるほど、冷たかった。

吐く息が、白く、箒の柄に、かかった。

坂を、のぼって、老人の、門の前に、立った。

箒の穂を、道に、斜めに、当てた。

腕全体で、ゆっくり、引いた。

落ち葉が、一枚、二枚、寄った。

門の内側から、窓の、カーテンが、少し、動いた。

見られている、とは、思わなかった。

見られていても、いなくても、手は、同じだった。

要らない。

それでも、わたしは、掃く。

でも、そうではなかった。

要らないから、やめるのではなかった。

要らないから、続いている。

要らない。

それでも、わたしは、続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この十五分に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

石の階段の、てっぺんまで、掃き終えた。

塵取りの中の、落ち葉を、庭の隅の、木の根元に、そっと、あけた。

老人の家の戸は、閉まっていた。

窓の、カーテンも、動かなかった。

朝の光だけが、窓ガラスに、白く、映っていた。

わたしは、それを、見て、何も、言わなかった。

箒の穂を、一度、振って、土を、落とした。

それから、自分の家の前に、戻って、玄関の脇に、箒を、立てかけた。

戸を、開ける前に、坂の上を、一度だけ、見た。

道には、箒の穂の跡が、細い筋に、なって、残っていた。

ソウルミッション358

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