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3_窓の掛け金

部屋のものが空気を整える母の部屋の窓を、六年、毎朝指一本ぶん開けてきた娘に、主治医は、部屋の空気はいつも最適だと告げた。必要でないと知って、それでも開ける。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

3_窓の掛け金

朗読で聴く

第一章 朝の指一本ぶん

川沿いの、古い家の二階で、八十四になる母と、二人で、暮らしている。

家の前の川は、浅くて、ゆるやかだ。

朝は、霧が、水面に、薄く、かかる。

対岸の柳が、風のたびに、さらさらと、揺れる。

わたしは四十九になる。

母の部屋は、川に面した、東の部屋だ。

朝いちばんの光が、窓枠の影を、畳の上に、長く、のばす。

影の端は、少しずつ、母の寝台の足元へ、近づいていく。

部屋には、部屋のものが、ある。

空気を、整える。温かさを、保つ。湿り気を、見ている。

必要なことは、全部、そのものが、やってくれる。

母の息は、いつも、いちばん楽なように、守られている。

それでも、わたしは、毎朝、六時に、母の部屋の窓を、開ける。

窓は、上げ下げの、木の窓だ。

木は、年月で、薄く、反っている。

反ったところが、窓枠に、こすれて、小さな音を立てる。

古い、真鍮の、掛け金が、ついている。

掛け金を、右へ、まわして、外す。

窓を、指一本ぶん、持ち上げる。

それ以上は、上げない。

隙間から、川の匂いと、朝の冷たい空気が、細く、入ってくる。

わたしは、その細い風が、母の頬に、届くまでを、見ている。

母は、まだ、眠っていることが、多い。

昔は、わたしより、ずっと、早起きの人だった。

朝の台所で、味噌汁の匂いが、階段を、のぼってきた。

頬が、ほんの少し、動く。

それを、見届けたら、窓を、一度、閉める。

閉めたら、掛け金を、左へ、戻す。

五分で、おしまいだ。

六年、毎朝、そうしてきた。

父が、亡くなった年からだ。

父は、窓の掛け金を、毎朝、母のために、外していた。

その仕事を、わたしが、そのまま、引き継いだ。

第二章 掛け金の重さ

体は、窓に、合わせて、できた。

右の親指の腹が、掛け金を、まわす、癖で、少し、平らになっている。

掛け金は、固い。

油を、させば、軽くなる。

けれど、わたしは、さしたことが、ない。

固さまで、含めて、この窓だと、思っている。

まわすには、親指に、体重を、のせる。

六年で、指の腹の皮が、厚くなった。

爪の際に、細い、割れ目も、できた。

耳は、風の音に、合わせて、できた。

窓を、持ち上げた瞬間の、川風の高さが、わかる。

今日は、上流から、吹いている。

今日は、橋のほうから、吹いている。

そういうことが、音だけで、わかる。

耳を澄ますと、橋の下を、水が、通る音まで、聞こえる。

母は、昔、この窓の、掛け金を、一日に、何度も、開けたり、閉めたりしていた。

わたしが、子どものころは、窓が、母の、いちばんの、仕事だった。

「風を、入れなさい」と、母は、よく、言った。

「家も、息を、するから」

その言葉を、わたしは、いまも、覚えている。

けれど、いまの部屋は、風を、入れなくても、息を、している。

部屋のものが、整えてくれるからだ。

風を入れることは、もう、必要では、ない。

それでも、わたしの親指は、掛け金を、まわしに、行く。

第三章 弟が数えているもの

弟は、費用を、数えている。

母の部屋の、維持に、毎月、いくらかかっているか。

三か月に一度、短い、連絡をくれる。

「今期は、少し、下がったよ」と、言う。

助かっている。

わたしは、お金のことが、苦手だ。

弟は、遠い町に、住んでいて、年に二度、顔を、見せに来る。

弟は、母に、似て、色が白い。

汽車を降りると、まず、川を、見る。

来るたびに、母の手を、握る。

それから、わたしに、「ありがとう」と、言って、帰る。

丁寧で、抜けがない。

わたしは、何も、数えていない。

窓を、何回、開けたかは、数えたことがない。

六年で、二千回と少しだろうか。いま、初めて、計算した。

二千回、窓を開けて、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

母の部屋の空気は、部屋のものが、整えたほうが、正確だ。

同じ母を持つ、姉と弟が、まったく別のものを、数えていた。

弟の数字は、母を、この家に置いておくために、要る。

わたしの二千回は、無くても、母は、困らない。

一度、弟に、言われたことがある。

「姉さん、窓は、開けなくても、いいんだよ。空気は、ちゃんと、管理されているんだから」

わたしは、「そうね」と、答えた。

反論しなかった。反論する材料が、なかった。

第四章 最適です

先月、母の、主治医が、来た。

年配の、穏やかな先生だ。

母の部屋に入って、窓の前に、立った。

窓の掛け金を、見て、わたしを、見て、言った。

「部屋の空気は、いつも、最適です」

わたしは、「そうですか」と、答えた。

「息の通り方も、湿り気も、温度も、お母様に、いちばん、よい状態に、保たれています」

先生は、続けた。

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「ですから、窓を、開ける必要は、ありません」

先生は、窓の掛け金に、手を、触れた。

真鍮の掛け金は、六年で、ところどころ、黒ずんでいた。

わたしの指の跡だけが、そこだけ、金色に、光っていた。

「むしろ、外の空気は、少し、冷たすぎるかも、しれません」

わたしは、「そうですね」と、答えた。

先生は、帰っていった。

先生の背中は、窓の光の中で、小さく、なっていった。

階段を降りる足音が、いつもより、ゆっくり、聞こえた。

窓の外の、川が、朝の光を、きらきらと、返していた。

母の頬は、静かだった。

部屋のものが、整えた、静かな、寝息だった。

わたしの窓が、いらないことは、よく、わかった。

第五章 要らない

翌朝も、六時に、なった。

わたしは、母の部屋に、入った。

窓の前に、立った。

掛け金に、親指を、のせた。

のせたまま、まわさなかった。

先生の言葉が、耳に、残っていた。

外の空気は、少し、冷たすぎるかもしれません。

それなら、わたしの六年は、何だったのだろう。

母の部屋のためでは、ない。

母のためでも、ないかもしれない。

やめるべきなのだと、思った。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

わたしは、親指に、体重を、のせた。

掛け金が、小さな音を立てて、外れた。

窓を、指一本ぶん、持ち上げた。

窓枠が、かすかに、きしんだ。

きしむ音は、母の寝息より、小さかった。

細い風が、入ってきた。

わたしは、風が、母の頬に、届くまでを、見ていた。

頬が、ほんの少し、動いた。

それは、風のせいなのか、たまたまなのか、わからない。

わからなくて、いい。

要らない。

それでも、わたしは、続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この五分に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

エピローグ

窓を、閉めた。

頬には、薄く、朝の光が、のっていた。

光は、ゆっくり、枕のほうへ、動いていた。

掛け金を、左へ、戻した。

母の頬は、静かだった。

わたしは、母の枕元の、小さな椅子に、腰を、おろした。

川の音が、細く、聞こえていた。

それから、母の手を、取って、自分の手の中で、少しのあいだ、温めた。

朝の、七時になった。

階段は、一段ごとに、軽く、鳴った。

わたしは、足音を、立てないように、降りた。

わたしは、母の手を、毛布の上に、戻して、台所へ、降りていった。

ソウルミッション358

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