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2_背中をさする

寝室のものが血の巡りを整える夫の背中を、十一年、毎晩手のひらでさすってきた妻に、看護の人は、背中の巡りは寝室のものが見ていると告げた。必要でないと知って、それでもさする。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

2_背中をさする

朗読で聴く

第一章 夜の手のひら

海に近い、古い家の、二階の寝室で、夫と、二人で、暮らしている。

窓を開けると、潮の匂いが、入ってくる。

夜は、波の音が、遠く、聞こえる。

瓦屋根の端は、潮風で、白く、錆びている。

わたしは七十一になる。

夫は、七十八だ。

若いころは、船に乗っていた。

肩幅の広い人だった。

いまは、その肩が、寝間着の中で、ずいぶん、小さい。

寝室には、寝室のものが、ある。

夫の寝返りを、手伝う。体の温かさを、保つ。呼吸の様子を、夜どおし、見ている。

必要なことは、全部、そのものが、やってくれる。

夫は、眠りが、浅くなった。

それでも、朝まで、静かに、眠っている。

そのとおりに、寝室が、整えている。

わたしは、毎晩、九時になると、寝床の脇の、低い腰掛けに、座る。

夫は、右を下にして、横になっている。

枕は、低く、固い。

夫は、昔から、そういう枕が、好きだった。

わたしは、右の手のひらを、夫の背中の、肩と肩のあいだに、のせる。

手を、ゆっくり、下へ、すべらせる。

腰のあたりまで、行ったら、また、上へ、戻る。

一往復に、十秒かかる。

急ぐと、手のひらが、布の上を、すべるだけになる。

ゆっくり行くと、布の下の、骨の形が、わかる。

それを、二十回、くり返す。

数えるのは、手のひらの、往復だ。

声には、出さない。

三分と少しで、おしまいだ。

寝間着の布が、手のひらに、あたたかい。

夫は、何も言わない。

礼を言われたことは、この十一年で、数えるほどしかない。

最後に言われたのが、いつだったか、わたしは、思い出せない。

寝息が、少しずつ、深くなる。

障子の外を、夜風が、通る。

風の音が、波の音に、重なる。

二十回、終えたら、手を、離す。

それから、毛布の端を、肩まで、引き上げる。

毛布は、母の形見の、厚い、羊毛だ。

毛羽が、指に、柔らかい。

十一年、毎晩、そうしてきた。

第二章 右の手のひら

体は、背中に、合わせて、できた。

右の手のひらの、真ん中が、いつも、温かい。

冷たい日でも、そこだけは、ほんのり、熱を、持っている。

医者には、「血の巡りが、いいですね」と、言われた。

わたしは、「そうですか」と、答えた。

毎晩、他人の背中に、手をあてているからだとは、言わなかった。

腰は、腰掛けの高さに、合わせて、少し、前に、曲がった。

腰掛けは、低い。

木の脚が、一本だけ、少し、短い。

座るたびに、かたり、と、小さく、傾く。

その傾きも、わたしの体は、覚えている。

夫が、背中の痛みを、訴えた年に、わたしが、用意した。

夫の体の高さと、わたしの手の高さが、ちょうど、合う高さだ。

座ったまま、背中から、わたしの肘まで、一本の線が、まっすぐに、なる。

体は、そうやって、できていった。

夫の背中は、年ごとに、小さくなった。

以前は、手のひらに、広かった。

いまは、手のひらが、背中を、すっぽり、包むことが、ある。

その変化を、わたしは、毎晩、少しずつ、受け取ってきた。

急にではない。十一年かけて、受け取った。

寝室のものも、たぶん、数字として、記録している。

けれど、わたしの手のひらが、知っているのは、数字ではない。

夫の背中が、どんなふうに、小さくなっていったかを、手のほうが、覚えている。

第三章 隣人が数えているもの

隣の家に、同じ年ごろの、奥さんが、住んでいる。

隣の奥さんは、毎朝、歩数を、数えている。

門の前で、顔を合わせると、「今日は、八千歩、歩きましたよ」と、言う。

わたしは、「お元気ですね」と、答える。

本心だ。

隣の奥さんは、いつも、元気だ。

朝の光の中で、杖を、くるくる、回しながら、歩く人だ。

わたしは、何も、数えていない。

背中を、何回、さすったかは、数えたことがない。

十一年で、四千回と少しだろうか。いま、初めて、計算した。

四千回さすって、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。

夫の背中の巡りは、寝室のものが、整えている。

わたしの手を、あてても、あてなくても、同じだ。

同じ街に住む二人が、まったく別のものを、数えていた。

隣の歩数は、本人の元気を、表している。

わたしの四千回は、無くても、夫は、困らない。

一度、隣の奥さんに、言われたことがある。

「毎晩、大変でしょう。もう、お任せしたら、どうですか」

わたしは、「ええ」と、答えた。

反論しなかった。反論する材料が、なかった。

第四章 見ています

先月、看護の人が、来た。

月に一度の、見回りの人だ。

若い女の人で、小さな、手帳を持っていた。

寝室に入って、夫の様子を、見た。

それから、わたしの顔を、見て、言った。

「背中の巡りは、寝室のものが、見ています」

わたしは、「そうですか」と、答えた。

「ですから、ご自分で、さすって差し上げる必要は、ありません」

看護の人は、続けた。

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「奥様の、お体のほうが、心配です。夜は、ゆっくり、お休みください」

わたしは、「ありがとうございます」と、答えた。

看護の人は、帰っていった。

玄関の戸が、閉まる音は、ほとんど、聞こえなかった。

若い人の足は、いつも、軽い。

階段を、降りる、足音が、軽かった。

その夜も、九時に、なった。

わたしは、寝室の、低い腰掛けに、座った。

夫は、右を下にして、眠っていた。

寝室のものが、整えている、静かな、寝息だった。

夫の寝顔は、昼間より、ずっと、若く見えた。

わたしの手が、いらないことは、よく、わかった。

第五章 要らない

わたしは、右の手のひらを、夫の背中に、のせた。

のせてから、しばらく、動かさなかった。

看護の人の言葉が、耳に、残っていた。

わたしが、さすらなくても、背中は、大丈夫だ。

それなら、この三分は、何なのだろう。

寝室のものは、夫を、温めている。

寝室のものは、夫を、守っている。

わたしの手のひらは、何も、足していない。

やめるべきなのかも、しれない。

要らないのだから。

でも、そうではなかった。

手を、下へ、すべらせた。

夫の背中が、手のひらの下で、上下した。

深い息だった。

わたしは、気づいた。

背中を、さすっているとき、わたしは、夫の呼吸を、自分の手のひらで、聞いている。

寝室のものが、聞いているのとは、別の聞き方だ。

数字には、ならない。

でも、聞いている。

要らない。

それでも、わたしは、続ける。

それが、愛おしいということなのだと、思う。

この三分に、わたしは、名前を、つけない。

名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。

二十回、さすり終えた。

夫は、眠ったまま、ほんの少し、肩を、動かした。

エピローグ

翌日も、九時に、なった。

わたしは、寝室の、低い腰掛けに、座った。

夫は、右を下にして、横になっていた。

右の手のひらを、肩と肩のあいだに、のせた。

ゆっくり、下へ、すべらせた。

腰まで行って、また、上へ、戻った。

二十回、くり返した。

それから、手を、離して、毛布の端を、夫の肩まで、引き上げた。

窓の外で、波の音が、した。

わたしは、寝室の、小さな灯りを、一つだけ、残して、下へ、降りていった。

ソウルミッション358

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