0_爪を切る
部屋のものが毎週きれいに整える父の爪を、九年、週に一度自分で切ってきた娘に、往診の人は、爪は昨日もう整っていたと告げた。必要でないと知って、それでも続ける。必要でないことを、やり続ける。名前をつけたら別のものになるので、名前をつけない。

朗読で聴く
第一章 週に一度
山あいの家で、八十八になる父と、二人で暮らしている。
家の裏には、小さな沢が、流れている。
朝は、水の音と、鳥の声で、目が覚める。
夕方は、山の影が、早く、家に、かかる。
わたしは五十八になる。
父の部屋は、家のいちばん日当たりのよい、南の部屋だ。
縁側には、父が、若いころに、自分で張った、板が、残っている。
板は、年月で、黒く、つやつやしている。
部屋にあるものが、父の世話を、ほとんど、してくれる。
体を起こす。清潔にする。薬の時間を守る。夜のあいだも、見ている。
正確で、疲れない。
わたしが、まだ若かったころには、考えられなかったほど、静かな暮らしだ。
それは、いまでは、ごくあたりまえのことになった。
父は、あまり話さなくなった。
昔は、よく、話す人だった。
山の木の名前や、沢の魚の話を、飽きずに、していた。
いまは、窓の外を、ゆっくり、見ている。
けれど、目は、合う。
そして、週に一度、日曜の午後に、わたしは、父の爪を切る。
小さなつめ切りと、木の盆を持って、父の寝台の脇に、座る。
つめ切りは、母が使っていたものだ。
握りの塗りが、すっかり、剥げている。
盆は、父が、自分で、削ったものだ。
父の手を、わたしの膝の上に、のせる。
手は、軽くて、乾いている。
皮膚は、薄い紙のように、指の骨の形を、見せている。
それでも、手のひらは、まだ、温かい。
指を、一本ずつ、持つ。
指は、細くて、骨ばっている。
握ると、折れそうで、いつも、少しだけ、ゆるめる。
爪を、少しだけ、残して、切る。
切った爪は、盆の上に、小さな音を立てて、落ちる。
その音は、ほとんど、聞こえない。
聞こえないほど、小さな音を、わたしは、毎週、聞いている。
十本、切り終えるのに、二十分かかる。
切り終えたあと、爪の角を、つめ切りの背で、軽く、なでる。
それで、おしまいだ。
九年、毎週、そうしてきた。
母が亡くなった年の、秋からだ。
母が、最後に、父の爪を切ったのは、その前の週だった。
第二章 指の先
体は、つめ切りに、合わせて、できた。
右の親指と、人差し指の先が、いつも、少し、しびれている。
小さな道具を、強く、つまむからだ。
目は、爪の白いふちに、合わせて、できた。
小さな字が、読みにくくなった。
その代わり、とても細い線が、見える。
爪の根元の、薄い半月も、見える。
父の爪は、年ごとに、薄くなった。
はじめのころは、切るときに、ぱちんと、音がした。
いまは、そっと、挟むだけで、切れてしまう。
その変化を、わたしは、毎週、少しずつ、受け取ってきた。
急にではない。九年かけて、受け取った。
部屋のものも、たぶん、記録している。
数字としては、わたしより、ずっと、正確に、知っているだろう。
ただ、わたしの指が、知っているのは、数字ではない。
父の爪が、どんなふうに、薄くなっていったかを、指のほうが、覚えている。
第三章 兄が数えているもの
兄は、通院の回数を、数えている。
遠い町に住んでいて、父の診察の日を、かならず、覚えている。
兄の声は、電話だと、少し、父に、似ている。
「今月は、三回だったな」と、電話で言う。
助かっている。
わたしは、日にちの数え方が、苦手だ。
兄は、年に二度、帰ってくる。帰ってくると、父の部屋を見て、必要なものを、手配して、帰っていく。
兄は、帰るたびに、わたしの肩を、軽く、たたく。
それが、兄の、ありがとうだ。
丁寧で、抜けがない。
わたしは、何も、数えていない。
爪を、何回、切ったかは、数えたことがない。
九年で、四百五十回ほどだろうか。いま、初めて、計算した。
四百五十回で、何かが、よくなったかというと、何も、よくなっていない。
父の爪は、部屋のものが切ったほうが、きれいに揃う。
わたしが切ると、角が、少し、残る。
同じ父を持つ兄妹が、まったく別のものを、数えていた。
兄の通院の回数は、父を、この家に置いておくために、要る。
わたしの四百五十回は、無くても、父は、困らない。
無くても困らないことを、わたしは、よく、知っている。
一度、兄に、言われたことがある。
「爪くらい、任せればいいじゃないか。ちゃんと、やってくれるんだから」
わたしは、「うん」と答えた。
反論しなかった。反論する材料が、なかった。
第四章 整っていましたよ
先月、往診の人が、来た。
若い男の人で、鞄を、持っていた。
やまみちを、登ってきたのか、靴に、細かい土が、ついていた。
玄関で、丁寧に、靴の土を、落としていた。
父の部屋に、入って、脈を診て、手の指を、一本ずつ、見た。
それから、わたしのほうを、見て、言った。
「爪は、昨日、もう、整っていましたよ」
わたしは、「そうですか」と答えた。
「部屋のものが、金曜に、切っています。形も、長さも、完璧です」
往診の人は、続けた。
悪気は、なかった。
事実を、言っただけだ。
「ですので、爪のお手入れは、もう、しなくて、大丈夫ですよ」
わたしは、頷いた。
往診の人は、「お大事に」と言って、帰っていった。
その日は、日曜だった。
わたしは、いつもどおり、つめ切りと、木の盆を、持って、父の部屋に、入った。
父の爪は、すでに、きれいに、整っていた。
切るところが、なかった。
第五章 要らない
わたしは、父の手を、膝の上に、のせた。
窓の外では、風が、杉の梢を、鳴らしていた。
指を、一本ずつ、持った。
爪を、見た。
部屋のものが、切った爪は、角が、どこにも、なかった。
わたしは、つめ切りを、盆に、置いた。
つめ切りは、盆の上で、小さく、かたりと、鳴った。
切るところがなければ、わたしの二十分は、何もない。
それでも、わたしは、父の手を、離さなかった。
しばらくして、気づいた。
わたしが、九年、やってきたのは、爪を切ることではなかった。
父の手を、膝の上に、のせる、二十分だった。
爪は、そのための、口実だった。
口実が、なくなった。
わたしは、「もう、やめよう」と、思うべきなのだろう。
要らないのだから。
でも、そうではなかった。
わたしは、つめ切りを、もう一度、手に取って、父の薬指の爪の角を、背で、そっと、なでた。
切るところが、なくても、なでることは、できる。
要らない。
それでも、わたしは、続ける。
それが、愛おしいということなのだと、思う。
この二十分に、わたしは、名前を、つけない。
名前をつけたら、たぶん、別のものに、なる。
父は、目を、閉じていた。
指が、少し、動いた。
起きているのは、わかった。
エピローグ
来週の日曜も、わたしは、つめ切りを、持って、父の部屋に、入る。
廊下の板は、冬になると、足の裏に、冷たい。
その冷たさを、わたしは、九年、毎週、踏んでいる。
切るところは、たぶん、ない。
兄には、言っていない。
兄は、「爪くらい、任せればいい」と、また、言うだろう。
わたしは、「うん」と答えて、日曜に、また、行く。
要らないことのほうが、なぜか、長く、続いている。
わたしは、つめ切りと、木の盆を、寝台の脇の棚に、しまった。
それから、父の手を、もう一度、そっと、膝から、寝台の上に、戻した。
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