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8_白い線の角

現代、校庭の白線を三、四、五の縄で直角を測って引いてきた用務員に、若い教員は、来年から外注に出す予定だと告げた。直角は誰も見ない。評価の項目にない。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

8_白い線の角

朗読で聴く

第一章 石灰の朝

愛知の、小さな町の、小学校で、用務員をしている。

校舎は、古い、鉄筋の三階建てだ。

屋上には、錆びた、給水の塔が、ある。

校庭の隅には、古い、桜の木が、一本、立っている。

わたしは六十三になる。

朝は、六時に、校門の鍵を、開ける。

鍵は、錆びて、少し、固い。

回すたびに、小さな、音がする。

子どもたちが、来る前に、校庭を、見回る。

霜の降りる朝は、地面が、白く、固い。

わたしの長靴が、ざくざくと、音を立てる。

その音を、聞きながら、校庭を、一周する。

見回って、いちばん最初に、するのは、白線の確認だ。

運動会が、近くなると、校庭に、白い線を、引き直す。

百メートル走の、直線。

リレーの、トラック。

玉入れの、円。

どれも、一年ぶりに、引く線だ。

線を引くのは、わたしの仕事だ。

倉庫から、手押しの、線引きの車を、出す。

車の中に、石灰の粉を、入れる。

石灰は、白くて、軽い。

手に、つくと、肌が、乾いて、つっぱる。

洗っても、爪の間に、白さが、残る。

風が、少しでも、吹くと、粉が、舞う。

わたしは、風のない、朝を、選ぶ。

天気予報は、あてにならない。

校庭の旗の、垂れ方を、見る。

旗が、動かなければ、その日が、線を引く日だ。

まず、校庭の、端に、杭を、二本、打つ。

杭と、杭の間に、紐を、張る。

杭は、細い、竹だ。

毎年、裏山から、同じ太さの竹を、切ってくる。

紐は、ぴんと、張る。

張った紐が、朝の光を、細く、受ける。

紐の影が、地面に、一本の、影の線を、引く。

その紐の、上を、線引きの車で、ゆっくり、押す。

車の輪が、地面を、転がる。

石灰が、紐の真下に、細く、落ちていく。

線は、どこまでも、まっすぐだ。

途中で、足元の石が、車輪を、跳ねさせることがある。

そういうときは、石を拾って、線の外へ、投げる。

曲がり角では、紐の向きを、変える。

角度は、直角だ。

直角を、確かめるために、わたしは、三、四、五の縄を、使う。

三メートルと、四メートルと、五メートルの、縄で、三角形を、作る。

縄が、ぴんと、張れば、その角は、直角だ。

二十年、毎年、同じ方法で、引いてきた。

この方法は、前の用務員の、おじいさんから、教わった。

おじいさんは、何も、言わずに、縄を、わたしの手に、渡してくれた。

第二章 腰と目

体は、白線に、合わせて、できた。

腰が、少し、曲がっている。

線引きの車を、押す姿勢が、そのまま、残った。

歩くときも、少し、前に、かがむ。

近所の子が、「その歩き方、かっこいい」と言った。

わたしは、「そうか」と答えた。

理由は、言わなかった。

目は、遠くの、一本の線に、合わせて、できた。

校庭の端から、端を、見通すと、線が、一ミリ、ずれていても、わかる。

眼科の先生は、「視力は、いいですね」と言った。

わたしは、「そうですか」と答えた。

用務員の仕事は、学校の中で、いちばん、目立たない。

先生は、授業を、する。

事務は、書類を、扱う。

給食の人は、食事を、作る。

用務員は、校庭の、草を刈り、窓を、直し、白線を、引く。

どれも、気づかれない場所の、仕事だ。

白線は、運動会の日に、子どもたちが、走って、踏んで、消えていく。

誰も、線の角が、直角かどうかは、見ない。

見られないことは、仕事が、うまくいっている、証でもある。

第三章 事務が数えているもの

学校の事務室に、長く勤める人が、いる。

その人は、備品の数を、数えている。

体育倉庫の、ボールの数。

ゼッケンの、数。

紅白帽の、数。

年度末に、全部を、数え直して、台帳に、書く。

「今年は、ボールが、三つ、減った」と言う。

わたしは、「どこかに、あるだろう」と答える。

事務の人は、よく働く。

朝は、誰よりも、早く、来ている。

事務室の明かりは、いつも、最後まで、消えない。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

白線を、何メートル、引いたかは、数字にしても、誰にも見せない。

同じ校庭に、二十年、いる二人が、まったく別のものを、数えていた。

事務の人の数は、教育委員会に、報告される。

わたしの線は、誰も、数えていない。

事務の人は、わたしの縄のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 若い教員

去年の秋、運動会の準備を、していたとき、若い教員が、校庭に、来た。

新しく、赴任してきた、体育の先生だ。

わたしは、紐を張って、線を、引いていた。

秋の空は、高かった。

鰯雲が、校舎の屋根の上に、細く、並んでいた。

先生は、わたしの手元を、しばらく、見ていた。

それから、言った。

「来年から、白線は、外注に、出す予定です」

わたしは、顔を、上げた。

「業者が、機械で、引くんです。レーザーで、角度を、測って」

先生は、続けた。

「機械で、引けば、一時間、早いので」

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

先生は、続けて、言った。

「用務員さんの、仕事は、そのぶん、他の作業に、回せます」

わたしは、「そうですか」と答えた。

先生は、笑って、頭を下げて、校舎のほうに、戻っていった。

背中が、若かった。

若い背中は、まっすぐ、校舎の扉に、吸い込まれていった。

先生は、悪い人では、なかった。

悪意なく、事実を並べる、そういう先生だった。

わたしは、紐を、見た。

杭と杭の間に、ぴんと、張った、紐だ。

そこに、わたしの、二十年が、あった。

誰も、惜しまなかった。

それは、当たり前だからだ。

第五章 誰も、数えない

その日の夕方、わたしは、校庭に、一人、残った。

運動会は、三日後だった。

校庭の端の、桜の葉が、一枚、二枚、落ちてきた。

葉は、白い線の上に、止まって、動かなかった。

引き終えた白線は、夕日の下で、薄く、赤く、光っていた。

わたしは、校庭の端に、立って、線を、見通した。

一ミリも、ずれていない。

胸のどこかが、きしんでいた。

きしんだということは、惜しんでほしかったのだ。

二十年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。

誇りというのは、他人に関係のないものだと、思ってきた。

それが、全部、本当では、なかった。

わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。

でも、そうではなかった。

来年から、機械が引くとしても、今年の線は、わたしの線だ。

誰も、評価しない。

誰も、数えない。

それでも、わたしだけは、この白線を、誇っている。

わたしは、三、四、五の縄を、持ってきた。

線の角に、縄を、当てた。

縄は、ぴんと、張った。

直角だった。

誰も見ないなら、わたしが見る。

それは、代わりではない。

順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。

エピローグ

運動会の日の、朝が、来た。

空は、よく、晴れていた。

雲の影が、校庭を、ゆっくり、横切っていった。

わたしは、いつもどおり、六時に、校門を、開けた。

校庭の白線は、朝の光の中で、きれいに、浮かんでいた。

子どもたちが、続々と、登校してきた。

誰も、白線の角を、見なかった。

わたしは、石灰の車を、倉庫に、戻した。

それから、校庭の隅の、小さな、折り畳みの椅子を、一つ、運んで、スタートラインの、脇に、置いた。

ソウルミッション358

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