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7_ベッドの足の裏

現代、病室の床の角とベッドの足の裏まで拭く清掃員は、十二分の基準を一分超える。看護師は、基準は十二分ですと告げた。測れないものは評価項目にない。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

7_ベッドの足の裏

朗読で聴く

第一章 床の角

札幌の、大きな病院で、清掃の仕事をしている。

冬は、窓の外が、白い。

駐車場の雪は、朝のうちに、重機で、端へ寄せられる。

病棟の中だけが、いつも、同じ温度だ。

わたしは四十六になる。

朝の六時に、病棟の、裏口から入る。

裏口の守衛さんと、毎朝、「おはようございます」だけ、交わす。

それ以上の会話は、したことがない。

更衣室で、薄い水色の作業着に、着替える。

ロッカーは、小さくて、少し、錆びている。

扉の内側に、折りたたんだ、手拭いを、一枚、掛けてある。

台車に、洗剤と、雑巾と、灰色のモップを、積む。

それから、四階の病棟に、上がる。

一日に、掃除する病室は、二十三室だ。

廊下の、いちばん奥の、四百十二号室から、始める。

廊下の床は、ワックスで、鈍く、光っている。

夜勤明けの看護師と、すれ違う。

互いに、小さく、会釈をする。

病室に、入る。

窓の外は、まだ、暗い。

ベッドの上の人は、眠っている。

寝息が、規則正しい。

点滴の落ちる音が、どこかで、一定に、続いている。

わたしは、音を立てないように、モップを、床に、置く。

床は、床の真ん中から、拭くのではない。

真ん中は、あとからでも、拭ける。

角は、先に、拭かないと、あとで、汚れを、引きずる。

壁際から、拭く。

壁と、床が、交わる角を、まず、雑巾で、なぞる。

次に、ベッドの足の、裏側に、手を入れる。

ベッドの足は、四本ある。

その足の、裏の、見えない所に、埃は、溜まる。

わたしは、膝をついて、一本ずつ、四本、拭く。

足の裏には、車輪が、ついている。

車輪の軸に、髪の毛や、糸くずが、絡んでいる。

それを、指で、一本ずつ、取る。

それから、モップを、かける。

十二分で、一部屋を、終える決まりだ。

わたしは、いつも、十三分かかる。

一分、超える。

その一分は、ベッドの足の、裏の、ぶんだ。

第二章 膝と肩

体は、床の角に、合わせて、できた。

右の膝が、少し、曲がらなくなった。

整形外科の先生に、「膝をつく仕事ですか」と、聞かれた。

わたしは、「ええ、まあ」と答えた。

一日に、百回近く、膝をつく。

十二年で、膝の軟骨が、すり減ったと言われた。

先生は、レントゲンの写真を、わたしに、見せてくれた。

白い影が、膝の関節の上に、薄く、広がっていた。

左の肩は、モップを、押す角度に、合わせて、上がっている。

手の指の腹は、洗剤で、ひび割れている。

夏でも、冬でも、同じだ。

清掃の仕事は、病院の中で、いちばん、見えない。

先生は、診察をする。

看護師は、患者の世話をする。

事務は、書類を、整える。

清掃は、そのあいだに、入って、終わる。

患者が、目を覚ます前に、終える。

終わったあとの、部屋は、何も、起きていないように、見える。

見えなくなることが、仕事の成果だ。

見えなくなって、はじめて、病室は、病室になる。

患者が、静かに、休める場所になる。

第三章 同僚が数えているもの

同じ班に、同僚が、いる。

同僚は、清掃した部屋の数を、数えている。

事務所の壁に、その日の清掃の一覧が、貼り出される。

部屋の番号ごとに、終わったかどうかが、印で、示される。

同僚は、毎日、その一覧を、見て、「今日は、二十五室、終わった」と言う。

わたしは、「早いね」と答える。

本心だ。

同僚は、よく働く。

動きに、無駄が、ない。

台車の車輪の音が、いつも、遠くから、速く、近づいてくる。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

ベッドの足の裏を、何本拭いたかは、数字にならない。

同じ病棟で、十二年、働く二人が、まったく別のものを、数えていた。

同僚の二十五室は、病院が、数えている。

わたしの膝は、誰も、数えていない。

同僚は、わたしの膝のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 基準

先月の、朝の、ミーティングで、看護師長が、全員に、言った。

来月から、清掃の評価の、項目が、新しくなる。

一部屋の、清掃時間。

一日の、清掃部屋数。

ゴミ箱の、回収の、時刻。

それだけだ。

若い看護師が、プリントを、配った。

わたしは、プリントを、見た。

床の角のことは、どこにも、書いていない。

ベッドの足の、裏のことも、書いていない。

わたしは、その看護師に、聞いた。

「十三分では、いけませんか」

看護師は、少し、困った顔をして、答えた。

看護師は、プリントを、胸の前に、抱えていた。

わたしの問いが、どこに、置かれるべきなのか、わからない顔だった。

「清掃は、一部屋、十二分の基準ですから」

悪気は、なかった。

事実を、言っただけだ。

「それ以上かかると、一日の、部屋数が、足りなくなるので」

わたしは、「そうですか」と答えた。

看護師は、プリントを、配り続けた。

廊下の窓の外で、雪が、横に、流れていた。

誰かのモニターの、電子音が、ひとつ、鳴った。

測れないものは、無いのと同じ扱いに、なる。

それは、会社が、悪いのではない。

測れるものだけが、評価できる、というだけの話だ。

第五章 誰も、数えない

その日の、昼休み、わたしは、休憩室の、隅に、座った。

弁当の蓋を、開けて、箸を、持った。

中身は、昨夜の、残りの、煮物と、白いごはん、だ。

休憩室の、湯沸かし器が、ことことと、鳴っていた。

食べながら、考えた。

十二分で、終わらせる、ことは、できる。

床の角を、拭かなければ、十二分で、足りる。

ベッドの足の、裏を、拭かなければ、十一分で、足りる。

誰も、気づかない。

気づかないどころか、評価は、上がる。

わたしは、箸を、置いた。

胸のどこかが、きしんでいた。

きしんだということは、誰かに、認めてほしかったのだ。

十二年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。

誇りというのは、他人に関係のないものだと、思ってきた。

それが、本当は、そうではなかった。

わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。

午後の、四百十五号室で、わたしは、膝をついた。

ベッドの足の裏に、手を入れた。

雑巾が、少し、ざらついた。

ざらつきは、指の腹に、はっきり、伝わった。

目で見るよりも、先に、手が、知る。

埃が、薄く、溜まっていた。

わたしは、それを、拭き取った。

やめられなかった。

でも、そうではなかった。

評価されないから、やめられるのではなかった。

誰も、評価しない。

誰も、数えない。

それでも、わたしだけは、この床の角を、誇っている。

四本、拭き終えて、わたしは、立ち上がった。

膝が、小さく、鳴った。

窓の外では、雪が、少しだけ、止んでいた。

誰も見ないなら、わたしが見る。

それは、代わりではない。

順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。

エピローグ

夕方、仕事が、終わった。

四階の、いちばん奥の、四百十二号室の前を、通った。

ドアが、少し、開いていた。

窓際の、ベッドの上で、患者が、静かに、眠っていた。

床が、夕日を、薄く、映していた。

誰も、足の裏を、見ない。

わたしは、台車を、押して、ゆっくり、廊下を、歩いた。

それから、モップを、水で、洗って、壁に、立てかけた。

ソウルミッション358

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