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6_名前を呼ぶ

平成二年、客の名前と好みを覚えて玄関で名前を呼ぶ旅館の番頭に、新しい仲居は、来月から予約の機械に名前が出ると告げた。名前を呼ぶ仕事は機械が肩代わりした。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

6_名前を呼ぶ

朗読で聴く

第一章 玄関の声

平成二年の石川の、山あいの温泉旅館で、ばんとうをしている。

谷川の音が、一晩じゅう、聞こえる宿だ。

秋には、山が、赤と黄色に、染まる。

冬には、屋根に、雪が、積もる。

わたしは五十八になる。

旅館の玄関の、広い土間に、立っている。

土間は、黒い石の、敷石だ。

朝は、わたしが、水を打つ。

打った水が、石の目に、染みていく。

夕方の三時から、客が、着く。

車が、玄関の前に、止まる。

戸が、開く。

最初の客が、敷居をまたいだ瞬間に、わたしは、声をかける。

その瞬間を、逃したことは、一度もない。

客の足が、敷居に、触れるか、触れないかの、わずかな間だ。

「いらっしゃいませ。山田さま」

客の名前を、呼ぶ。

客は、一瞬、驚いた顔をする。

驚くのは、名前を、呼ばれたからではない。

覚えられていたと、知るからだ。

それから、少し、笑う。

わたしは、名簿を、見ない。

名簿は、帳場の引き出しに、ある。

見るのは、客が、部屋に、入ってからだ。

答え合わせのように。

客の名前と、顔を、結びつけて、頭に、入れている。

それだけではない。

好みも、入れている。

山田さまは、窓側の部屋が、好きだ。

鈴木さまは、朝の風呂が、早い。

佐藤さまの奥様は、梅干しが、苦手だ。

去年と、今年と、一昨年。

同じ客が、毎年、来る。

夫婦で、来る人もいる。

夫婦の片方が、来なくなる年も、ある。

そのときは、わたしは、何も、聞かない。

ただ、窓側の部屋を、少し、静かな場所に、替える。

わたしは、その客の、前の年のことを、覚えている。

玄関で、名前を呼ぶ。

それから、「去年は、お孫さんが、いらっしゃいましたね」と、一言、添える。

三十五年、毎日、そうしてきた。

覚えるための、手帳は、持たない。

夜、風呂に浸かりながら、その日の客の顔を、一人ずつ、思い出す。

思い出せないと、湯から、上がれない。

第二章 顔の癖

体は、名前を呼ぶことに、合わせて、できた。

客の顔を、見るとき、わたしの目は、一瞬、斜め上に、動く。

目の動きが、客に、見えないように、顎を、少し、引く。

そのぶん、首の後ろが、いつも、張っている。

記憶を、引き出すときの、癖だ。

妻には、「天井に、何か、あるの」と、笑われた。

町に、買い物に出ても、同じだ。

知らない人の顔に、名前を、探してしまう。

探して、見つからず、少し、疲れる。

見つからないのは、会ったことが、ないからだ。

それが、わかっていても、探してしまう。

ばんとうの仕事は、旅館の中で、いちばん、目立たない。

女将は、客に、挨拶をする。

仲居は、部屋に、案内をする。

料理人は、皿に、料理を、盛る。

ばんとうは、荷物を、運んで、玄関に、立つ。

それだけに、見える。

名前を、呼ぶことは、仕事の一覧には、載っていない。

旅館の、規則にも、書かれていない。

給料は、出ない。

ただ、わたしの頭の中に、客の名前が、何百人ぶん、入っている。

数えたことは、ない。

五百人か、千人か、わからない。

第三章 同僚が数えているもの

同じ旅館に、長く、勤めている同僚が、いる。

同僚は、宿泊客の数を、数えている。

帳場の壁に、大きな黒板が、掛かっている。

その日の、泊まり客の人数を、毎朝、チョークで、書く。

月末に、合計を、出す。

「今月は、千二百人だったよ」と、同僚が、言う。

わたしは、「ご苦労さん」と答える。

本心だ。

同僚は、よく働く。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

名前を、呼んだ回数は、数字にしても、誰にも見せない。

同じ帳場で、三十年、働く二人が、まったく別のものを、数えていた。

同僚の千二百人は、旅館の、売り上げに、なる。

同僚が、書く、チョークの字は、少し、丸い。

毎朝、黒板の前で、粉を払う、後ろ姿を、わたしは、見ている。

わたしの呼ぶ声は、誰も、数えていない。

同僚は、わたしの頭の中のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 新しい仲居

去年の暮れ、旅館に、新しい仲居が、入った。

町の短大を出たばかりの、若い人だ。

わたしは、玄関で、新しい仲居に、客の迎え方を、教えていた。

客が、着く。

名前を、呼ぶ。

一言、添える。

彼女は、わたしの横で、うなずきながら、聞いていた。

それから、小さな声で、言った。

「来月から、予約の、機械が、入りますよね」

わたしは、「そうらしいね」と答えた。

彼女は、続けた。

「お客さまの、お名前も、好みも、全部、画面に、出るそうです」

彼女は、悪気なく、言った。

事実を、言っただけだ。

彼女の手には、小さな手帳が、あった。

まだ、新しい、手帳だった。

「玄関で、お客さまが、着いたら、画面を見れば、お名前が、わかります」

わたしは、「そうか」と、言った。

それ以上、言葉が、出なかった。

三十五年かけて、頭に、入れたものが、一つの画面に、収まる。

画面は、薄くて、軽い。

わたしの三十五年は、重かった。

彼女は、続けて、言った。

「ばんとうさんは、お客さまの、荷物を、お願いします」

名前を、呼ぶ仕事は、機械が、する。

わたしは、荷物を、運ぶ。

誰も、惜しまなかった。

女将も、惜しまなかった。

女将は、「便利になるわね」と、言った。

わたしは、「そうですね」と答えた。

それは、当たり前だからだ。

第五章 誰も、数えない

その夜、わたしは、帳場に、一人で、残った。

真鍮の、小さな呼び鈴が、帳場の台の上に、置いてあった。

磨かれた、金色の肌に、帳場の明かりが、小さく、映っていた。

三十五年、同じ場所に、置かれた鈴だ。

客が、呼ぶときのものだ。

わたしは、それを、指で、一度だけ、鳴らした。

ちん、と、澄んだ音が、した。

胸のどこかが、きしんでいた。

きしんだということは、惜しんでほしかったのだ。

三十五年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。

誇りというのは、他人に関係のないものだと、思ってきた。

それが、全部、本当では、なかった。

わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。

翌日の、夕方三時、客が、着いた。

最初の客が、敷居を、またいだ。

わたしは、画面を、見なかった。

「いらっしゃいませ。鈴木さま」

客は、驚いた顔をして、少し、笑った。

でも、そうではなかった。

機械が、あるから、要らなくなったのではなかった。

誰も、評価しない。

誰も、数えない。

それでも、わたしだけは、この声を、誇っている。

誰も見ないなら、わたしが見る。

それは、代わりではない。

順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。

エピローグ

夜になった。

玄関の、明かりが、落ちた。

谷川の音だけが、土間まで、上がってきた。

旅館じゅうが、息を、ひそめているようだった。

わたしは、土間の、敷居を、雑巾で、拭いた。

雑巾は、冷たかった。

指の関節が、水で、痛んだ。

客が、またいだ敷居だ。

木の目に、冬の、靴の跡が、うっすらと、残っていた。

それから、帳場に戻って、台帳の、白い余白に、明日着く客の、名前を、一人ずつ、鉛筆で、書き写した。

電灯の下で、鉛筆の芯が、かすかに、音を立てた。

書き終えるたびに、その人の顔が、胸の中で、一度、笑った。

最後の一人を書いて、鉛筆を、置いた。

ソウルミッション358

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