5_一息の線
平成五年、看板の文字を一息で引いてきた看板屋に、三十年来の八百屋の主人は、次から業者のシートで頼むと告げた。誰も頼まない白い板に、それでも一本の線を引いた。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

朗読で聴く
第一章 筆の運び
平成五年の長野の、小さな町で、看板屋をしている。
町の真ん中を、細い川が、流れている。
朝は、橋の上に、霧が、立ちこめる。
店の戸を開けると、冷たい水の匂いが、入ってくる。
わたしの店は、その橋の袂にある。
わたしは四十九になる。
店の名前を、屋根の板に、書く。
父も、看板屋だった。
わたしは、十九のときから、父の隣で、板を、磨いた。
父は、何も教えずに、ただ、自分の筆を、見せてくれた。
八百屋の、魚屋の、床屋の。
木の板に、白い下地を塗って、乾かす。
下地は、胡粉を、膠で、溶いたものだ。
三度、塗り重ねる。
塗るたびに、板の目が、少しずつ、隠れていく。
乾いた板の前に、座る。
座る場所は、いつも、同じだ。
畳の上の、擦り切れた、座布団の上だ。
座布団の窪みが、わたしの形に、なっている。
長い平らな筆に、墨を含ませる。
含ませる量は、決まっている。
墨は、前の晩に、磨っておく。
朝の墨は、香りが、柔らかい。
多すぎると、線が、にじむ。
少なすぎると、線が、掠れる。
筆の腹を、硯のふちで、一度だけ、しごく。
筆は、父の形見だ。
毛先が、少し、短くなった。
短くなったぶん、手が、覚えている。
それから、板の端に、筆先を、置く。
一息で、引く。
線の太さは、最初から最後まで、同じだ。
途中で、息を、継がない。
継ぐと、そこに、小さな瘤ができる。
客は、瘤に、気づかない。
気づかないから、直さないのではない。
わたしが、気づくから、直す。
けれど、わたしには、見える。
一本の線を、引き終えるのに、三秒かかる。
その三秒の間、わたしは、息を止めている。
板の上の線が、止まった瞬間に、息を、吐く。
三十年、一枚の板に、数十本の線を、引いてきた。
どの線も、一息だ。
線が、乾くまでの、数分のあいだ、わたしは、動かずに、板を見ている。
線は、乾くと、ほんの少し、細くなる。
その細くなる分まで、見込んで、引く。
第二章 止める肺
体は、筆の運びに、合わせて、できた。
肺が、息を止めることに、慣れた。
健康診断で、「肺活量が、年の割に、多いですね」と言われた。
わたしは、「そうですか」と答えた。
息を止める仕事だとは、言わなかった。
医者は、胸の音を、聴いて、首をかしげた。
「ゆっくり、吐く癖が、ありますね」と言った。
右の肩は、筆を持ち上げる角度に、合わせて、少し、上がっている。
背中は、板に向かって、前傾している。
歩くときも、わたしは、無意識に、前に傾いている。
妻は、「猫背ね」と言う。
猫背ではない。
板に向かう、姿勢だ。
看板屋の仕事は、町の人に、よく見られる。
見られているのは、看板で、書いた人ではない。
それで、いいと、思ってきた。
店の看板は、毎日、目に入る。
けれど、その文字を、誰が書いたかは、誰も、見ない。
看板は、そこに、もともと、あったもののように、扱われる。
雨が降っても、雪が降っても、看板は、そこに、ある。
傷んでも、誰も、気にとめない。
傷んだ日に、はじめて、人は、見上げる。
書いた人の名前は、板の裏に、小さく、書く。
誰も、裏は、見ない。
第三章 同業者が数えているもの
町の、向かいの通りに、同業者が、いる。
同業者は、受注の枚数を、数えている。
一年に、何枚、書いたか。
年が明けると、「去年は、二百十枚だった」と、わたしに言う。
わたしは、「たいしたもんだ」と答える。
本心だ。
同業者は、よく働く。
最近は、新しい機械を、買ったらしい。
店の前に、大きな箱が、運び込まれていた。
注文を、断らない。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
線を引くたびに、息を止めた回数は、数字にしても、意味がない。
同じ町に、三十年、看板を出している二人が、まったく別のものを、数えていた。
同業者の二百十枚は、税務署が、数えている。
向かいの店の、軒先には、色とりどりの、シートが、積んである。
通るたびに、新しい色が、増えている。
わたしの一息は、誰も、数えていない。
同業者は、わたしの息のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 注文主
去年の秋、駅前の、八百屋の主人が、わたしの店に、来た。
三十年来の、お客だ。
先代の主人のころから、うちの板だ。
父が、最初に書いた八百屋の看板は、まだ、店の奥に、残っている。
屋根の看板が、古くなったので、新しいものを、頼みに来た。
わたしは、「いつもの白い板に、黒い文字で、いいですか」と聞いた。
主人は、頷くものと、思っていた。
それは、わたしの、思い込みだった。
主人は、少し、考えて、言った。
「いや。今度は、業者の、シートで、頼むよ」
わたしは、「シート」と、繰り返した。
「駅前の、新しい店が、みんな、そうしてるんだ。機械で、切って、貼るんだと」
主人は、続けた。
「早いんで、助かるんだよ」
悪気は、なかった。
事実を、言っただけだ。
シートは、明るく、安い。
夜になると、中から、光る。
通りの人の目を、よく、引く。
三日で、できる。
わたしの板は、三週間かかる。
主人は、「悪いね」と言って、店を出ていった。
戸が、閉まる音が、した。
戸のガラスが、小さく、鳴った。
わたしは、その背中を、見送った。
外は、小雨が、降りはじめていた。
橋の上を、誰かが、傘をさして、渡っていった。
背中は、少し、丸くなっていた。
いつのまにか、わたしと同じ、年になっていた。
それから、白い板を、一枚、台に、置いた。
誰も、頼んでいない板だ。
板には、何も、書かれていない。
白い板の肌が、明かりの下で、静かに、光っていた。
それを、わたしは、乾かして、座った。
第五章 誰も、数えない
筆に、墨を、含ませた。
墨は、まだ、少し、温かかった。
硯の海に、筆の先が、沈んでいく。
含ませる量は、変わらない。
板の端に、筆先を、置いた。
胸のどこかが、きしんでいた。
きしんだということは、惜しんでほしかったのだ。
三十年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。
誇りというのは、他人に関係のないものだと、思ってきた。
それが、全部、本当ではなかった。
わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。
息を、止めた。
筆を、引いた。
一息で、同じ太さの線が、板の上を、走った。
途中で、息を継ぐ必要は、なかった。
誰も、頼んでいない。
誰も、見ない。
でも、そうではなかった。
頼まれなかったから、この線が、無意味になるわけではなかった。
誰も、評価しない。
誰も、数えない。
それでも、わたしだけは、この一息を、誇っている。
線を、引き終えて、息を、吐いた。
板の上に、一本の、墨の線が、残った。
瘤は、どこにも、なかった。
誰も見ないなら、わたしが見る。
それは、代わりではない。
順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。
エピローグ
夕方になった。
わたしは、書いた板を、裏返した。
裏の、右下の隅に、筆の細いほうで、自分の名前を、小さく、書いた。
誰も、見ない場所だ。
板を、壁に、立てかけた。
それから、硯の墨を、静かに、磨りはじめた。
あなたの魂のテーマに気づく場所