4_鋏の音
平成三年、切符を半秒で見て鋏を入れる改札を三十年続けた駅員に、若い駅員は、来月から自動の機械が入ると告げた。要らなくなったと誰も言わず、誰も惜しまなかった。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

朗読で聴く
第一章 ひと目で
平成三年の福島の、地方の駅で、改札に立っている。
わたしは五十三になる。
国鉄の時代から、この改札口に、立っている。
いまは、会社の名前が、変わった。
けれど、改札口の木の台は、わたしが来たときから、同じものだ。
角が、手の脂で、黒く、光っている。
朝のラッシュは、六時四十分から、八時半まで。
高校生と、勤め人が、改札の前に、列を作る。
高校生の、鞄は、大きくて、重そうだ。
勤め人は、新聞を、折りたたんで、持っている。
みな、同じ色の、マフラーを、巻いている。
わたしは、木の台の前に、立つ。
台の上には、定期入れが、いくつも、並ぶ。
どれも、使い込まれて、角が、丸い。
右手に、改札鋏を持つ。
切符が、わたしの目の前に、差し出される。
一枚、一枚、日付と、区間を、ひと目で見る。
日付が、今日か。
区間が、この駅から乗れるか。
定期なら、期限が、切れていないか。
見るのは、一枚につき、半秒だ。
古い切符は、角が、擦り切れている。
定期券の、写真は、少し、大きい。
人によって、切符の差し出し方が、違う。
それで、鋏を、入れる。
入れる場所は、切符の端の、決まったところだ。
かちん、と、小さな音が、鳴る。
鋏の音は、一定の間隔で、続く。
間隔が、乱れると、後ろの列が、乱れる。
わたしは、その間隔を、三十年、守ってきた。
かちん、かちん、かちん。
朝の駅の、いちばん最初の音は、わたしの鋏だ。
鋏の音が、聞こえると、ホームの鳩が、ばたばたと、飛び立つ。
それが、毎朝の、合図のようになっている。
第二章 手首の癖
体は、鋏の動きに、合わせて、できた。
右の手首が、左より、少し、太い。
袖を、まくると、手首の筋が、浮き出る。
若いころの写真と、見比べると、別の手に見える。
親指と、人差し指の間に、鋏の握りの形の、へこみが、ある。
三十年、毎日、何万回も、握ったからだ。
家で、爪を切るときも、指が、鋏の握りの形に、勝手に、なる。
妻に、「爪切りも、改札みたい」と笑われた。
目は、切符に、合わせて、できた。
遠くの看板は、にじむのに、小さな字は、はっきり、読める。
眼鏡屋は、「不思議な目ですね」と言った。
人の手元に、白いものが差し出されると、反射的に、その角を見る。
薬の袋でも、年賀状でも、同じだ。
日付と、区間を、探してしまう。
改札の仕事は、駅の仕事の中でも、特別なものとは、呼ばれない。
運転士のような、花形でもない。
駅長のような、責任でもない。
ただ、通る人を、通す。
一人も、止めない。
一人も、間違えさせない。
間違った切符を、持っている人には、わたしは、声をかける。
「こちらは、一つ先の駅までですよ」と。
声は、できるだけ、小さく、かける。
他の人に、聞こえないように。
その仕事に、名前は、ない。
駅の看板には、「改札口」と書いてある。
けれど、そこに立つ人の仕事の名前は、どこにも、書かれていない。
第三章 後輩が数えているもの
同じ駅に、後輩の駅員が、いる。
後輩は、乗降人数を、数えている。
駅の隅に、小さな手動のカウンターが、置いてある。
人が通るたびに、後輩は、指で、押す。
一日の終わりに、その数を、日報に、書く。
「今日は、三千二百人でした」と言う。
わたしは、「そうか」と答える。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
一枚の切符を、半秒で見る。
三十年で、何枚、見たか。
数字にしても、誰にも見せない。
同じ改札口に、立つ二人が、まったく別のものを、数えていた。
後輩の数字は、日報に、残る。
日報は、毎月、本社に、送られる。
わたしの名前は、そこには、ない。
わたしの半秒は、誰も、数えていない。
後輩は、わたしの鋏の音の、間隔のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 機械の日
去年の暮れに、本社から、通知が、来た。
来年の春から、この駅にも、自動の改札機が、入る。
いまは、大きな駅にしか、ない機械だ。
切符を、差し込むと、中で、読み取って、機械が、開く。
わたしは、その日の朝、駅長室で、通知を、見た。
通知は、薄い、藁半紙に、印刷されていた。
駅長は、湯呑みを持ったまま、窓の外を、見ていた。
若い駅員が、わきに、立っていた。
後輩よりも、さらに若い、研修中の青年だ。
彼は、図面を、見ながら、言った。
「この機械は、一分間に、六十人、通せるそうです」
わたしは、「そうか」と答えた。
「来月から、設置工事に入ります。この改札口は、半分に、なります」
青年は、図面の上に、赤鉛筆で、線を引いた。
線は、改札口を、ちょうど、二つに、分けていた。
青年は、悪気なく、続けた。
「人は、窓口のほうに、回ると、聞いています」
わたしは、窓口という言葉を、聞いて、少し、考えた。
窓口は、ガラスの向こうに、座る仕事だ。
客の顔は、見えても、切符は、手に取らない。
窓口は、切符を、売る場所だ。
改札とは、別の仕事だ。
三十年、鋏を握った手は、窓口には、向いていない。
青年は、そこまでは、言わなかった。
青年は、図面の端を、指で、押さえていた。
若い指だった。鋏の跡が、どこにも、なかった。
事実だけを、言った。
誰も、惜しまなかった。
それは、当たり前だからだ。
第五章 誰も、数えない
その夜、わたしは、駅の自宅に、戻った。
妻は、台所で、味噌汁を、温めていた。
台所の窓から、駅の屋根が、見える。
夜の屋根は、雪を、少し、かぶっていた。
わたしは、通知のことを、言わなかった。
それで、風呂に入って、寝た。
翌朝も、六時四十分に、改札に立った。
木の台の前に、立って、鋏を、持った。
最初の切符が、差し出された。
差し出したのは、いつもの、高校生だった。
毎朝、同じ時刻に、同じ切符を、出す子だ。
日付と、区間を、半秒で見て、鋏を、入れた。
かちん。
その音を、わたしは、初めて、聞くように、聞いた。
認められなくても、いいと、思ってきた。
誇りというのは、他人とは、関係ないものだと、思ってきた。
けれど、機械が来ると聞いたとき、胸の中で、何かが、きしんだ。
きしんだということは、誰かに、惜しんでほしかったのだ。
わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。
でも、そうではなかった。
惜しまれなかったから、半秒の間隔が、無意味になるわけではない。
誰も、評価しない。
誰も、数えない。
それでも、わたしだけは、この鋏の音を、誇っている。
次の切符が、差し出された。
かちん。
その次も。
列は、一人も、止まらずに、進んだ。
誰も、わたしの手元を、見なかった。
見ないから、止まらないのだ。
誰も見ないなら、わたしが見る。
それは、代わりではない。
順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。
エピローグ
八時半に、朝のラッシュが、終わった。
列が、消えて、改札口に、冬の光が、差し込んだ。
わたしは、鋏の刃を、手拭いで、拭いた。
刃の合わせ目に、油を、一滴、さした。
それから、木の台の角を、乾いた雑巾で、拭いて、次の列車の時刻を、待った。
あなたの魂のテーマに気づく場所