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2_針目の揃う袖

昭和四十二年、町工場の親方の夫の作業着の袖口を、毎晩米粒一つぶんの針目で繕ってきた妻に、若い工員は、生地がええんやなと言った。繕いは生地のおかげにされた。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

2_針目の揃う袖

朗読で聴く

第一章 袖口

昭和四十二年の大阪の、小さな町工場の裏に住んでいる。

わたしは三十八になる。

夫は、この工場の、親方だ。

旋盤が、四台。工員が、六人。

鉄の削れる匂いと、油の匂いが、家じゅうに、染みている。

洗濯物は、いつも、少し、灰色になる。

朝七時に、シャッターが上がる。

その音で、近所の犬が、吠える。

わたしは、その前に、釜の飯を、握り終えている。

夜は、八時まで、機械の音が、止まらない。

昼飯は、工員たちが、順番に、わたしの台所で食べる。

おかずは、いつも、芋の煮ものと、漬物だ。

それでも、みな、茶碗を、きれいに空にする。

工場の裏の、四畳半が、わたしたちの家だ。

夜、機械の音が止んでから、わたしは、夫の作業着を、広げる。

紺色の、厚い木綿の上着だ。

夫が、この工場を、開いた年に、仕立てたものだ。

三着あったのが、いまは、二着になった。

袖口を、見る。

毎日、旋盤の油と、削り屑で、袖口の端が、ほつれる。

わたしは、小さな木の裁縫箱を、膝の前に置く。

針に、紺の糸を通す。

糸の端を、指で、湿らせてから、玉結びを作る。

糸は、近所の荒物屋で、一巻き、買ってくる。

店の婆さんは、いつも、「また、紺の糸かい」と笑う。

ほつれの端を、内側に折り込む。

それから、針を入れる。

針目は、いつも、同じ幅だ。

米粒、一つぶん。

それより細かいと、袖が硬くなる。

それより粗いと、すぐにほどける。

一周、繕うのに、十五分かかる。

縫い終わって、糸を切る。

袖口を、指でなぞる。

針目が、一列に、揃っているのを、確かめる。

それから、夫の作業着を、畳んで、枕元に置く。

畳み方にも、決まりがある。

袖を、背中の後ろに、折って、襟を、上に出す。

朝、夫が、手探りでも、腕を通せるように。

十二年、一晩も、休んだことがない。

風邪を引いた夜も、同じだ。

熱があるときは、針目が、少し、揺れる。

揺れたら、ほどいて、やり直す。

第二章 糸の癖

体は、針の動きに、合わせて、できた。

右の人差し指の腹に、小さな、固い皮の盛り上がりが、ある。

針の尻を、押す場所だ。

その固い皮は、夏でも、冬でも、同じ形で、そこにある。

夫は、わたしの手を、握るとき、そこに触れて、「かたいな」と言う。

夫の手のひらは、わたしの手より、ずっと、厚くて、かたい。

旋盤の把手を、握り続けた手だ。

わたしは、「針仕事だから」と答える。

うそではない。

ただ、針仕事の中身が、夫の袖口だとは、言わない。

目も、針目に、合わせて、できた。

遠くの物は、霞むのに、手元の細かい糸の目は、くっきり見える。

眼鏡屋に、「手元だけ、よく見える目ですね」と言われた。

遠くを見るための眼鏡は、いつまでも、作れずにいる。

わたしは、「そうですか」と答えた。

夫の作業着の繕いは、仕事とは、呼ばれない。

家の中の、あたりまえのことだ。

工場の帳簿には、載らない。

給料も、出ない。

近所の奥さんたちは、うちの工場のことを、「羽振りがええな」と言う。

昭和四十年代の、大阪は、仕事が、いくらでもあった。

夫は、注文を、断らない。

そのぶん、袖口は、早く、ほつれる。

わたしの袖口の針目は、その羽振りの中には、数えられていない。

第三章 夫が数えているもの

夫は、出荷した部品の数を、数えている。

夕方、工員が、箱に詰めた部品を、台車に積む。

夫は、それを、一つずつ、数える。

「今日は、千二百個や」と、言う。

翌日は、「今日は、千三百個や」と、言う。

わたしは、「よう、出たね」と答える。

本心だ。

夫は、よく働く。

正月でも、旋盤を、磨いている。

機械の調子が悪い日は、夜中でも、起き上がる。

部品の数は、夫の一日を、表している。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

針目の数は、いつも、一周で、二百ほどだ。

けれど、それは、数字にしても、誰にも見せない。

同じ四畳半に、十二年いる二人が、まったく別のものを、数えていた。

夫の千二百個は、取引先が、数えている。

わたしの針目は、誰も、数えていない。

夫は、わたしの夜のことを、知らない。

夫が眠ってから、わたしは、針を持つからだ。

第四章 若い工員

去年の暮れ、工場に、新しい工員が、入った。

中学を出たばかりの、十六の男の子だ。

その子が、親方の作業着を、借りることになった。

夫の作業着は、一着しか、ない。

その日は、夫の上着の洗い替えが、乾いていなかった。

わたしは、洗い替えを、貸すのを、見ていた。

男の子は、上着の袖に、腕を通した。

少し、大きかった。

袖口が、手の甲に、半分、かかっていた。

袖口を、指で、つまんだ。

それから、言った。

「親方の作業着は、丈夫やなあ」

わたしは、手を止めた。

男の子は、続けた。

「ここまで、ほつれへんのは、珍しいわ。よっぽど、ええ生地やな」

夫は、わきで、笑った。

「そやろ。大阪の、ええ店で、買うたんや」

男の子は、「へえ」と、感心した。

それから、袖を、二、三度、振った。

まるで、新品を、買ってもらったように。

わたしは、何も、言わなかった。

言えば、夫の顔を、潰す。

言わなくても、困ることは、何もなかった。

ほつれないのは、生地のおかげではない。

毎晩、袖口を繕う、人のおかげだ。

けれど、それを知っている人は、わたしだけだ。

その日の夜、わたしは、いつもどおり、針を取った。

第五章 誰も、数えない

針に、糸を通す手が、少し、震えた。

四畳半の電球が、少し、揺れていた。

夫は、隣で、いびきをかいていた。

生地のおかげにされたことが、胸の中で、小さく、鳴っていた。

鳴ったということは、認めてほしかったのだ。

十二年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。

誇りというのは、他人に関係のないものだと、自分に言い聞かせてきた。

それが、全部、本当ではなかった。

わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。

それでも、針は、動いた。

ほつれの端を、折り込む。

針を、入れる。

米粒一つぶんの間隔で、ひと針、ひと針、進めていく。

見ている人は、いない。

でも、そうではなかった。

見ている人が、いないから、意味がないのではなかった。

誰も、評価しない。

誰も、数えない。

それでも、わたしだけは、この針目を、誇っている。

一周、縫い終えて、糸を切った。

袖口を、指でなぞった。

針目が、一列に、揃っていた。

紺の糸が、紺の布に、溶けるように、並んでいた。

よく見ないと、縫った跡は、わからない。

わからないほうが、いい。

誰も見ないなら、わたしが見る。

それは、代わりではない。

順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。

エピローグ

朝が来た。

夫は、紺の作業着に、腕を通した。

袖口を、気にもせず、ボタンを留めた。

若い工員が、「おはようございます」と言った。

夫は、「おう」と答えた。

わたしは、土間に降りて、シャッターを、上げた。

錆びた鎖が、手のひらに、冷たい。

鎖を引くと、シャッターが、がらがらと、鳴りながら、上がっていく。

朝の光が、旋盤の上に、細く、差した。

わたしは、旋盤の脇の、木箱の蓋を、開けた。

中の、油拭きの布を、取り出して、四台の機械の把手を、順に、拭いていった。

ソウルミッション358

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