1_藁を詰める
昭和四十五年、家族の濡れた長靴に毎晩藁を詰めて乾かしてきた農家の主婦に、配達の人は、足が丈夫なのは体質だろうと言った。長靴の手入れは仕事と呼ばれない。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

朗読で聴く
第一章 夜の長靴
昭和四十五年の新潟の、雪の深い村に住んでいる。
わたしは五十五になる。
山あいの農家の、嫁として来て、三十五年が過ぎた。
家は、茅葺きの、大きな造りだ。
梁は、煤で、黒光りしている。
天井の高い土間に、冬の冷気が、溜まる。
冬は、十一月の終わりから、四月の初めまで、雪に埋もれている。
朝は、まだ暗いうちに起きる。
台所の水は、凍っている。
わたしは、鍋の湯で、手を温めてから、釜の火を起こす。
家の者が、みな、雪かきに出るからだ。
夕方、みなが戻ると、玄関の土間に、長靴が、五足、並ぶ。
義父の。夫の。息子の二足。それから、息子の嫁の。
わたしは、夕飯の支度の合間に、土間に降りる。
濡れた長靴を、順に、逆さにして、水を切る。
雪解けの水が、ぽたぽたと、土間に、落ちる。
夫の長靴は、いつも、いちばん重い。
泥と雪と、藁くずの匂いが、土間いっぱいに、広がる。
それから、乾いた藁を、手でほぐして、長靴の中に、詰める。
詰め方には、順序がある。
まず、爪先に、藁を、ぎゅっと押し込む。
次に、踵のところに、少し緩めに、藁を足す。
最後に、筒の上のほうに、ふんわりと入れる。
詰め終わった長靴を、囲炉裏の脇の、上がり段に、並べる。
火のそばだが、近すぎない場所だ。
近いと、ゴムが傷む。
遠いと、夜のうちに、乾かない。
三十五年、毎晩、そうしてきた。
夫の母が、元気だったころは、夫の母が、していた。
わたしは、そばに座って、見ていた。
夫の母は、何も教えずに、ただ、藁を詰めていた。
朝になると、長靴は、ちょうど、中が乾いている。
藁は、湿りを吸って、少し、膨らんでいる。
わたしは、それを、指で押して、乾き具合を、確かめる。
朝いちばんの仕事は、それだ。
家の者は、それを、履いて、また雪の中に出ていく。
誰も、何も、言わない。
第二章 手の甲
体は、藁の硬さに、合わせて、できた。
手の甲に、細かい切り傷の跡が、いくつも、ついている。
藁の端は、鋭い。
手拭いを、巻いても、同じだ。
巻くと、藁の感触が、わからなくなる。
毎晩、ほぐすうちに、手の甲は、浅く切れる。
冬の乾いた空気で、そこが、割れる。
春になると、傷は、薄く、閉じる。
また、冬が来ると、同じところが、割れる。
息子の嫁が、一度、わたしの手を見て、「痛くないんですか」と聞いた。
嫁は、町から来た人で、囲炉裏の煙に、まだ、慣れていない。
わたしは、「慣れたから」と答えた。
嫁は、薬の缶を、持ってきてくれた。
塗ると、少し、沁みた。
けれど、長靴の藁のことは、嫁は、聞かなかった。
聞かれても、わたしは、「習慣で」と答えただろう。
この仕事は、家の中の誰の目にも、仕事として映らない。
農作業は、仕事だ。
雪かきも、仕事だ。
けれど、濡れた長靴を、乾かして、履ける形に戻すのは、仕事とは、呼ばれない。
食事の支度や、洗濯と、同じ棚に、しまわれる。
昭和のこの村では、嫁の手の傷は、働いた証には、ならない。
ただ、嫁の手が、荒れているだけだ。
第三章 義父が数えているもの
義父は、雪の深さを、数えている。
居間の、いちばん太い柱に、小さな傷を、ナイフで、刻んでいる。
毎年、十二月の最初の大雪の日から、積もった雪の高さを、柱に、一本ずつ、刻む。
柱には、六十年分の傷が、重なっている。
義父は、毎朝、それを見て、「今日は、去年より、二寸、多いな」と言う。
わたしは、「そうですか」と答える。
義父の傷は、柱に残る。
誰でも、見れば、わかる。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
乾いた長靴は、翌朝には、履かれて、雪にまみれる。
その夜、また、わたしが、藁を詰める。
同じ囲炉裏を囲む二人が、まったく別のものを、数えていた。
義父の傷は、六十年分、柱に刻まれている。
いちばん下の傷は、義父が、子どものころのものだ。
もう、薄れて、ほとんど、見えない。
わたしの藁は、三十五年分、灰になって、囲炉裏の底に、残っている。
義父は、わたしの夜のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 郵便の人
去年の冬の、大雪の日のことだ。
村に、郵便配達の人が、来た。
若い男の人で、背中に、雪をつけていた。
玄関で、わたしは、封書を受け取った。
男の人は、土間に、一歩、入って、長靴の列を、見た。
雪が、土間の上で、ゆっくり、水になっていった。
男の人の頬は、寒さで、赤かった。
それから、言った。
「このお宅は、みなさん、足が丈夫ですね」
わたしは、「はあ」と答えた。
「この雪の中、毎日、外に出て、冷えない。ほかの家は、足が冷えて、寝込む人もいるんですよ」
配達の人は、続けた。
「やっぱり、体質なんでしょうね」
笑って、頭を下げて、雪の中へ、戻っていった。
悪い人ではない。
配達の人のほうが、よほど、寒そうだった。
ただ、本当に、そう思ったのだ。
わたしは、玄関の戸を閉めた。
土間に、立ったまま、長靴の列を、見た。
並んだ長靴の中の藁は、朝には、灰色に、湿っている。
その藁を、わたしが、毎晩、入れ替えている。
湿った藁は、囲炉裏で燃やす。
新しい藁を、また、詰める。
誰の目にも、入らない。
足が冷えないのは、体質のおかげだと、言われた。
第五章 見る人
わたしは、その夜、いつもどおり、藁を詰めた。
途中で、手を止めた。
配達の人の言葉が、耳に残っていた。
胸のどこかが、きしんでいた。
きしんだということは、認めてほしかったのだ。
三十五年、誰にも見られなくていいと、思ってきた。
誇りというのは、他人とは、関係のないものだと、思っていた。
それが、本当は、違っていた。
認めてほしいという気持ちが、ちゃんと、あった。
わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。
けれど、その夜も、わたしの手は、止まらなかった。
爪先に、藁を押し込む。
踵に、少し緩めに、足す。
筒の上に、ふんわりと、入れる。
誰が見ていても、いなくても、手は、同じだった。
でも、そうではなかった。
認められなかったから、仕事ではないのではない。
認められなくても、この手は、仕事をした。
誰も、評価しない。
誰も、数えない。
それでも、わたしだけは、この長靴を、誇っている。
一足、詰め終えて、わたしは、土間の明かりの下で、それを、持ち上げた。
電球は、昨年、村に、やっと、通ったものだ。
黄色い灯りが、長靴の黒を、深くしていた。
形が、きれいに、整っていた。
誰も見ないなら、わたしが見る。
それは、代わりではない。
順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。
エピローグ
朝になった。
夫と、義父と、息子が、起きてきた。
土間に、並んだ長靴を、履いて、雪の中に出ていった。
誰も、中を、のぞかなかった。
わたしは、玄関の戸の、内側に立って、三人の背中を、見送った。
雪が、降りしきっていた。
わたしは、囲炉裏の灰を、掻いた。
湿った藁の残りを、火に入れた。
それから、桶を持って、井戸のほうへ、歩いていった。
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