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0_ひたいの手拭い

昭和四十三年、熱の子の額の手拭いを指で間隔を測って夜通し替えた母に、医者は、体の強い子だと言った。看病は数えられず、体質のおかげにされた。誰も評価しないものを、自分だけが誇る。誰にも認められなくても、見る人がいなければ自分が見る。

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朗読で聴く

第一章 夜の間隔

昭和四十三年の東京の、古い長屋に住んでいる。

六畳一間と、台所だけの、壁の薄い家だ。

隣の話し声も、向かいの咳も、夜は筒抜けになる。

路地の突き当たりには、共同の井戸が、まだ残っている。

わたしは四十二になる。

小学校二年の息子が、夜に熱を出した。

昼のうちは、元気に、路地で遊んでいた。

夕飯のとき、箸を持つ手が、少し、重そうだった。

ひたいに手を当てると、わたしの手のひらが、すぐに、熱くなった。

わたしは、洗面器の水に手拭いを浸して、固く絞る。

水は、井戸から、汲んできたばかりの、冷たい水だ。

氷屋が来る朝まで、氷は使えない。

それを四つに折って、息子のひたいにのせる。

のせたら、人差し指と中指と薬指の三本を、手拭いの上に、軽く当てる。

指に、熱が伝わってくる。

手拭いが、温くなる前に、替える。

替える間隔は、指でわかる。

冷たいうちは、指の腹がひんやりする。

それが、ぬるくなりかけると、指の腹が、ほんの少し、重くなる。

そのとき、替える。

早すぎると、子が寒がる。

遅すぎると、ひたいの熱が、手拭いに移らない。

わたしは、それを、長いあいだ、誰にも教わらずに、覚えた。

一晩に、四十回は替える。

一度も、数えたことはない。

数える暇があれば、次の手拭いを、絞る。

蚊帳の外では、ラジオも、もう消えている。

夜が明けると、やっと、息子の寝息が、静かになる。

障子の向こうが、うす青くなっていく。

どこかの家で、雨戸を開ける音がする。

路地の猫が、一声、鳴く。

そのときになって、わたしは、自分の指を、見る。

指の腹が、水でふやけて、白くなっている。

第二章 指の腹

体は、手拭いの重さに、合わせて、できた。

肩は、少し前に、丸まっている。

夜通し、同じ姿勢で、枕元に座るからだ。

背中が、洗面器の形を、覚えている。

指の腹が、十年かけて、薄くなった。

洗い物の水や、冬の冷たさに、いつも、さらされるからだ。

夏でも、指先は、少しひんやりしている。

夫は、わたしの手を握るとき、「冷たいな」と言う。

わたしは、「水仕事だから」と答える。

うそではない。

ただ、水仕事のほかに、毎晩の手拭いがあることは、言わない。

子どもが病気をするたびに、母親の指は、少しずつ、薄くなる。

わたしの母の指も、そうだった。

母は、指のことを、一度も口にしなかった。

それは、近所の女たちも、きっと同じだ。

けれど、誰も、そんな話はしない。

話すほどのことではないからだ。

家の中で、子を看ることは、仕事とは、呼ばれない。

給料は出ないし、帳面にも載らない。

役所も、会社も、これを「働いた」とは、数えない。

わたしは、その呼び名に、慣れた。

「何もしていない」と、言われたことも、ある。

夫の親戚が、遊びに来たときだ。

わたしは、笑って、お茶を出した。

慣れたけれど、薄くなった指の腹は、わたしだけが、知っている。

第三章 夫が数えているもの

夫は、給料袋の札を、数えている。

毎月、二十五日に、会社から茶色い袋を持って帰る。

わたしの前で、袋の中の札を、一枚ずつ、卓袱台に並べる。

「今月は、先月より、二枚多いぞ」と、言う。

わたしは、「よかったね」と答える。

本心だ。

夫は、よく働く。

電車の中では、立ったまま、眠ることもあるらしい。

帰ってくると、靴を脱ぐ前に、肩が落ちている。

朝は早く出て、夜は遅く帰る。

札の枚数は、夫の一か月の働きを、表している。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

指で測る間隔は、数字にならない。

四十回か、五十回かも、わからない。

同じ長屋の、同じ卓袱台を囲む二人が、まったく別のものを、数えていた。

夫の札は、会社が数えている。

わたしの夜は、誰も、数えていない。

夫は、わたしの夜のことを、知らない。

夫が眠るあいだ、わたしは、起きているからだ。

第四章 医者の言葉

息子の熱は、三日で、下がった。

四日目の朝、近所の医者に、息子を連れて行った。

白衣の医者は、息子の喉を見て、胸に聴診器を当てた。

診察室には、消毒液の匂いが、立ちこめていた。

壁の時計が、少し遅れて、時を刻んでいた。

それから、椅子の背にもたれて、笑った。

「いい下がり方ですね」

わたしは、頭を下げた。

医者は、続けた。

「体の強い子ですね。この年で、これだけ熱が下がるのは、持って生まれたものですよ」

わたしは、「ありがとうございます」と言った。

医者は、悪い人ではない。

ただ、本当に、そう思っているのだ。

夜通し、手拭いを替えたことは、医者の目には、入っていない。

三日間の、指の腹の重さも、入っていない。

息子が、熱を乗り越えたのは、体質のおかげだと、医者は、言った。

わたしは、その言葉に、反論しなかった。

反論しても、診察室の外で、待っている人が、増えるだけだ。

わたしは、診察室を出て、廊下に立った。

息子が、わたしの手を握った。

帰り道、八百屋の前で、息子が、みかんを指さした。

わたしは、一つだけ、買った。

息子は、皮をむいて、半分を、わたしにくれた。

小さな手が、温かかった。

わたしは、握り返した。

ほかに、すべきことは、なかった。

第五章 誰も、数えない

わたしは、診察室を出てから、少し、考えた。

あの三日間は、結局、誰の仕事だったのか。

夫のものでも、医者のものでもない。

息子のものでも、ない。

わたしのものだ。

けれど、わたしのものだと、言ってくれる人は、いない。

わたしは、これまで、そのほうが、いいと思ってきた。

誰にも、見られなくていい。

褒められなくていい。

誇りというのは、他人に関係のないものだと、自分に言い聞かせてきた。

医者の言葉を聞いたとき、胸のどこかが、きしんだ。

きしんだということは、認めてほしかったのだ。

わたしは、それが、少し、恥ずかしかった。

その夜、息子が、また、少し熱を出した。

わたしは、洗面器に、手を入れた。

手拭いを、絞って、折って、ひたいにのせた。

三本の指を、当てた。

やはり、同じだった。

認められなくても、わたしの指は、同じ間隔で、手拭いを替えた。

認められたかったのは、本当だ。

でも、そうではなかった。

認められたかどうかとは、別のところに、この指がある。

誰も、評価しない。

誰も、数えない。

それでも、わたしだけは、この夜を、誇っている。

夜が明けて、息子の寝息が、静かになった。

わたしは、指の腹を、見た。

水でふやけて、白かった。

それが、わたしの、見る人のいない、仕事の跡だ。

誰も見ないなら、わたしが見る。

それは、代わりではない。

順番として、本当は、そちらが先なのだと、思う。

エピローグ

息子の熱は、朝には、すっかり下がった。

夫は、いつもどおり、茶碗を持って、「うまい」と言った。

わたしは、「ああ」と答えた。

洗面器の水を、流しに捨てた。

手拭いを、固く絞って、竿に、掛けた。

昨夜の手拭いは、朝の光の中で、少し、重そうに、垂れていた。

わたしは、それを、端から端まで、一度だけ、見た。

それから、卓袱台を拭いて、息子の弁当に、梅干しを一つ、入れた。

ソウルミッション358

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