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9_階段の前のスリッパ

祖母が毎晩やっていた階段の前にスリッパを揃える習慣を、理由を聞かないまま二十六年続けてきた受付に、義妹は、祖母は暗い階段で足を折り、いまは足元灯があると告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

9_階段の前のスリッパ

朗読で聴く

第一章 最後の段の下

ウィスコンシンの、マディソンの近くの町で、歯科医院の受付をしている。

湖の多い町だ。

夏は、ヨットの白い帆が、湖面に、点々と、浮かぶ。

冬は、同じ湖が、厚い氷で、覆われる。

九月の朝は、湖の水面から、薄い霧が、立ちのぼる。

わたしは五十五になる。

診察室では、いつも、ドリルの音が、小さく、鳴っている。

泣く子には、飴ではなく、シールを、渡す。

選ぶのは、いつも、恐竜か、うさぎだ。

受け取った子の、小さな指が、しっかり、シールを、つかむ。

一日の終わりは、家の、階段の前だ。

夜、寝る前に、わたしは、二階へ上がる階段の、手前に、立つ。

玄関の脇に、小さな、茶色のスリッパが、一足、置いてある。

わたしは、それを、手に取る。

階段の、いちばん下の段の、すぐ前の床に、左右、揃えて、置く。

つま先を、玄関のほうに、向ける。

かかとを、階段に、そっと、揃える。

揃ったのを、見る。

一分もかからない。

終わると、肩が、すっと、緩む。

緩んでから、わたしは、階段の明かりを、消して、のぼる。

二十六年、一晩も、休んだことがない。

夫は、先に、二階で、寝ている。

夫は、郵便配達を、引退して、早起きが、習慣になった。

夜九時には、もう、眠そうな目をしている。

一度だけ、聞かれた。

「どうして、毎晩、スリッパを、並べ直すの」

わたしは、「きれいに、したいから」と、答えた。

夫は、「いい習慣だ」と、言った。

それ以上は、聞かれなかった。

なぜ、並べるのかは、聞かれていない。

第二章 半歩前の足

わたしは、この町で、生まれた。

祖母の、そのまた親が、ポーランドの、小さな町から、来た人たちだ。

わたしは、その国へ、行ったことが、ない。

言葉も、少しも、知らない。

知っているのは、旧い姓の、綴りが、少し、珍しいことだけだ。

顔立ちでは、誰にも、わからない。

「どこの国の人ですか」と、聞かれたことも、五十五年で、一度もない。

だから、わたしは、自分を、移民の子孫だと、思ったことは、ほとんど、ない。

体は、毎晩の一分に、合わせて、できた。

階段を、降りるとき、わたしは、最後の一段だけ、体重を、かかとに、乗せる。

そのあと、足が、勝手に、半歩、前へ出る。

まるで、そこに、スリッパが、あるかのように。

朝、スリッパを、片付けてしまった日でも、足は、同じ動きを、する。

右の膝は、その動きのせいで、少し、痛む。

医者は、「年齢でしょう」と、言った。

それは違う、と、わたしは、思っている。

二十六年、毎晩、同じ最後の一段で、同じように、体を、止めた。

膝が、それを、覚えた。

夜中に、トイレに起きるときも、わたしは、明かりを、つけない。

暗がりの中、足の裏が、最後の段のふちを、見つける。

そこから、半歩。

足は、必ず、柔らかい、布の上に、降りる。

第三章 姉が数えているもの

姉は、歩数を、数えている。

手首に、小さな機械を、つけている。

毎日、夕食のとき、その日の歩数を、読み上げる。

「今日は、八千二百歩」と、言う。

翌日は、「今日は、一万千歩」と、言う。

わたしは、「そうか」と、答える。

歩数が、増えると、姉の声は、少し、高くなる。

減ると、少し、黙る。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

わたしが確かめているのは、「ある」ということだからだ。

スリッパが、そこにある。

ある、は、数字にならない。

同じ祖母の家で、夏を、過ごした姉妹が、まったく別のものを、数えていた。

姉の数字は、毎日、増えたり、減ったりする。

わたしの一分は、毎晩、同じ段の前に、戻る。

姉は、わたしの夜のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 祖母の階段

スリッパを、毎晩、置いていたのは、祖母だった。

わたしは、子どものころ、夏になると、祖母の家に、預けられた。

祖母の家は、古い、二階建てだった。

階段は、急で、手すりが、細かった。

毎晩、寝る前に、祖母は、玄関の脇の、小さなスリッパを、手に取った。

階段の、いちばん下の段の、前に、置いた。

左右を、揃えて。

つま先を、玄関のほうに、向けて。

わたしは、よく、その横に、立って、見ていた。

祖母は、何も、言わずに、置いた。

廊下の、古い時計が、小さく、時を打っていた。

わたしは、その音と、スリッパの揃う音を、いまでも、一緒に、思い出す。

置いたあと、スリッパを、じっと、見ていた。

揃っているのを、見ていた。

それから、肩を、すっと、緩めて、階段を、のぼった。

わたしは、それが、好きだった。

祖母は、説明しなかった。

わたしも、聞かなかった。

子どもというのは、大人が、毎日やっていることに、理由があるとは、考えない。

それは、天気と、同じで、ただ、そうなっているものだ。

祖母は、わたしが、二十九のときに、亡くなった。

その夜、祖母の家の、階段の前で、わたしは、スリッパを、手に取っていた。

なぜ、そうしたのかは、わからない。

気がつくと、左右を、揃えて、置いていた。

それから、二十六年になる。

第五章 義妹の話

去年の夏、夫の妹が、泊まりに来た。

彼女は、昔、祖母の家の、隣に、住んでいた。

夜、わたしが、階段の前で、スリッパを、並べていると、後ろに、立っていた。

笑わなかった。

「それ、おばあさんと、同じね」と、言った。

わたしは、手を止めた。

彼女は、頼まれもしないのに、話した。

廊下の電球が、ぼんやりと、彼女の肩を、照らしていた。

「おばあさん、夜中に、トイレに、起きるでしょう」

「暗い階段の、最後の一段を、何度も、踏み外したの」

「一度は、足首を、折ったのよ」

「それから、いちばん下の段の前に、スリッパを、置くようになったの」

「足が、降りる場所の、目印にするために」

「あなたの家の階段は、足元灯が、ついているでしょう」

「もう、踏み外さないわよ」

彼女は、それだけ言って、客間へ、戻っていった。

わたしは、その場に立って、スリッパを、見ていた。

つまり、もう、必要は、ないのだ。

頭では、完全に、わかっていた。

だから、その夜は、やめられると思った。

でも、そうではなかった。

その夜も、階段の前で、スリッパを、並べた。

揃っているのを、見て、肩が、緩んだ。

必要は、なくなった。

それでも、わたしは、確かめ続けている。

わたしが確かめているのは、足元ではない。

揃ったスリッパを見る、あの一分の終わりの、一瞬だ。

あの一瞬を、わたしは、毎晩、取りに行っている。

暗い階段の前で、スリッパを見つめていた祖母に、「もう、大丈夫」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。

一晩ぶんしか、言えない。

だから、毎晩、言う。

エピローグ

今夜も、玄関の脇の、茶色のスリッパを、手に取った。

階段の、いちばん下の段の、前に、左右、揃えて、置いた。

つま先を、玄関のほうに、向けた。

揃ったのを、見た。

息を、長く、吐いた。

それから、階段の明かりを、消して、足元灯だけの階段を、一段ずつ、のぼっていった。

ソウルミッション358

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