6_逆さの靴
父から、来て二年目の夏に靴の中のサソリに刺された話を聞き、三十二年、毎朝靴を逆さにして叩いてきた板金工に、駆除業者は、この区画はもう出ないと告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

朗読で聴く
第一章 玄関の石段
アリゾナの、ツーソンの町で、屋根の板金工をしている。
赤い土の、乾いた町だ。
遠くに、岩だらけの山が、薄い紫に、並んでいる。
雨は、年に、数えるほどしか、降らない。
降った日は、町じゅうが、土の匂いで、満ちる。
夏の屋根は、素手では、さわれないほど、熱くなる。
だから、仕事は、夜明けと、同時に、始まる。
わたしは六十になる。
朝は、五時に、玄関の石段に、座る。
作業靴を、片方ずつ、手に取る。
靴口を、下に向けて、逆さにする。
それから、踵を、手のひらで、ぱん、ぱんと、叩く。
何も、落ちてこない。
もう一度、のぞきこんで、中を、見る。
靴の底に敷いた布も、指で、そっと、めくる。
手袋の中も、同じように、振る。
何も、ない。
そこまでして、やっと、足を入れる。
一足に、十秒くらいだ。
足を入れた瞬間、膝から、力が、抜ける。
抜けてから、わたしは、立ち上がる。
三十二年、一日も、休んだことがない。
旅行の朝も、同じだ。
ホテルの部屋の、玄関の脇で、靴を、逆さにする。
清掃の人が、不思議そうに、見ていたことも、ある。
若い職人は、笑う。
「毎朝、何を、振ってるんです?」
わたしは、「ほこり」と、答える。
うそではない。
ほこりも、落ちる。
ただ、わたしが振っているのは、ほこりでは、なかった。
第二章 叩く手のひら
わたしは、この町で、生まれた。
父は、メキシコの北の、小さな町から、来た人だ。
車の修理の仕事を、見つけたからだ。
父は、小さな、町工場で、毎日、油にまみれて、働いた。
夜は、わたしに、英語の宿題を、見せてくれと、言った。
わたしの宿題を見ながら、一緒に、読み方を、覚えていった。
特別な事情があったわけではない。
向こうより、こちらのほうが、仕事が多かった。
それだけの理由だ。
だから、わたしは、自分を、苦労した移民の子だと、思ったことは、あまりない。
ここで、育って、ここで、屋根に、のぼった。
体は、毎朝の十秒に、合わせて、できた。
右の手のひらの、付け根に、固い、丸い、たこがある。
靴の踵を、毎朝、叩いたところだ。
医者は、「板金の、工具のせいですね」と、言った。
それは違う、と、わたしは、思っている。
工具を握って当たるのは、指の根元だ。
付け根のたこは、三十二年ぶんの、踵の形をしている。
夏の朝は、赤い土の石段が、まだ、冷たい。
その冷たさと、靴を叩く、ぱんという音が、わたしの朝の、いちばん最初の、音だ。
わたしの手は、靴のどのあたりを、叩くと、中のものが、落ちるのかを、考えなくても、知っている。
弟子の若者に、教えようと、したことがある。
「こうやって、叩くんだ」
若者は、まねをして、笑った。
同じように、叩いているのに、わたしの音とは、少し、違った。
つま先を、軽く、持ち上げる。
踵を、三回。
靴口を、のぞく。
その順番は、一度も、変わっていない。
第三章 妻が数えているもの
妻は、鳥の種類を、数えている。
玄関のポーチに、小さな、窓がある。
そこから、庭の水飲み場に来る鳥を、見る。
妻は、小さなノートに、毎日、その日に来た鳥の名前を、書く。
「今日は、五種類」と、言う。
翌日は、「今日は、七種類」と、言う。
わたしは、「そうか」と、答える。
新しい鳥が、増えるたびに、妻は、ノートに、小さな丸を、つける。
ハチドリが来た日は、一日じゅう、機嫌がいい。
わたしは、その顔を、見るのが、好きだ。
丸が、増えるほど、妻の頬は、やわらかくなる。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
わたしが確かめているのは、「いない」ということだからだ。
いない、は、数字にならない。
靴の中には、毎朝、何も、いない。
それだけだ。
同じポーチで、同じ朝を迎える二人が、まったく別のものを、数えていた。
妻の数字は、毎日、変わる。
わたしの十秒は、毎朝、同じ場所に、戻る。
妻は、わたしの朝のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 父が話した日
話を聞いたのは、一度だけだ。
わたしが、二十八のとき。
父は、まだ、元気だった。
裏庭で、車の部品を、洗っていた。
バケツの水は、赤く、濁っていた。
わたしは、日陰の椅子に、座っていた。
父は、手を止めずに、話しはじめた。
「靴は、振ってから、履け」
わたしは、「うん」と、答えた。
そのあと、父は、続けた。
この国に、来て、二年目の、夏だ、と、言った。
朝、仕事に行こうとして、靴に、足を入れた。
つま先に、焼けるような、痛みが、走った。
靴の中に、小さな、黄色い、サソリがいた。
父は、靴ごと、床に、倒れた。
足は、みるみる、腫れた。
近所の人が、気づいて、病院まで、車で、運んでくれた。
半日、足は、動かなかった。
その週は、仕事に、行けなかった。
父は、その週の給料を、少しだけ、削られた。
母が、黙って、足りない分を、やりくりした。
「死ぬほどじゃ、なかった」と、父は、言った。
「運が、よかった」
話は、それで、終わりだった。
父は、感情を、込めずに、話した。
あのときの、痛みのことは、一言も、言わなかった。
わたしは、「そうか」と、だけ、答えた。
それから、父は、亡くなるまで、一度も、その話をしなかった。
翌朝から、わたしは、靴を、逆さにするように、なった。
第五章 駆除屋の話
去年の夏の初め、家の外壁の、点検のために、駆除業者が、来た。
作業服の、年配の男だった。
彼が、玄関のポーチを、通りかかったとき、わたしは、石段に、座っていた。
靴を、叩いていた。
見られたと思って、手を、止めた。
男は、笑わなかった。
「毎朝、やってるんですか」と、言った。
わたしは、「癖で」と、答えた。
彼は、頼まれもしないのに、話した。
「この区画は、十五年前に、全戸、薬剤の処理を、入れました」
「このあたりでは、もう、あれは、ほとんど、出ません」
「ここ十年、この通りで、刺されたという話は、聞いていませんよ」
彼は、それだけ言って、壁の点検に、戻った。
わたしは、その場に座って、靴を、見ていた。
靴は、父のものと、同じ型の、茶色い作業靴だ。
靴紐の結び目が、古い鳥の巣のように、固くなっている。
つまり、もう、必要は、ないのだ。
頭では、完全に、わかっていた。
だから、翌朝は、やめられると思った。
でも、そうではなかった。
翌朝も、五時に、石段に座った。
靴を、逆さにして、叩いた。
何も、落ちてこなかった。
膝から、力が、抜けた。
必要は、なくなった。
それでも、わたしは、確かめ続けている。
わたしが確かめているのは、サソリではない。
足を入れる、あの十秒の終わりの、一瞬だ。
あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。
わたしの知らない、あの朝の、床に倒れた若い父に、「もう、いないよ」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。
一日ぶんしか、言えない。
だから、毎朝、言う。
エピローグ
今朝も、五時に、玄関の石段に、座った。
靴を、片方ずつ、手に取った。
逆さにして、踵を、三回、叩いた。
靴口を、のぞいた。
何も、なかった。
息を、長く、吐いて、足を入れた。
それから、立ち上がって、トラックの後ろの、はしごを、肩に、のせた。
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