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5_杭の目印

父から、十二の春に町が増水して屋根の上で二晩を過ごした話を聞き、二十七年、毎朝川岸の杭の刻みで水かさを確かめてきた配達人に、若い技師は、上流の貯水池が受け止めるので水は町まで来ないと告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

5_杭の目印

朗読で聴く

第一章 夜明けの川岸

ミズーリの、ハンニバルのそばの町で、朝刊を配っている。

町の端に、大きな川が、流れている。

わたしは、五十二になる。

朝は、午前三時に、起きる。

台所で、濃いコーヒーを、一杯だけ、飲む。

妻は、まだ、眠っている。

起こさないように、靴下を、手に持って、玄関まで、歩く。

古い小型トラックに、新聞の束を、積む。

配達の前に、いつも、川岸へ寄る。

土手の下に、木の杭が、一本、立っている。

杭には、横に、細い刻みが、いくつも、入っている。

わたしは、トラックを降りて、杭の前に、立つ。

懐中電灯を、当てて、水面と、刻みを、見比べる。

水は、いつもの刻みの、下にある。

川面は、黒くて、静かで、遠くの橋の灯りを、細く、うつしている。

霧の出る朝は、川と、空の境目が、わからなくなる。

それを、確かめる。

確かめたら、ライトを消して、トラックに、戻る。

一分くらいだ。

戻ったとき、胃のあたりが、ふっと、ゆるむ。

ゆるんでから、わたしは、最初の家へ、車を出す。

二十七年、一日も、休んだことがない。

春の雨の日も、真冬の凍る朝も、同じだ。

凍った朝は、氷の下の水の高さを、懐中電灯で、のぞく。

同僚の配達人は、「この町の川は、おとなしいよ」と、言う。

彼は、この町に、越してきて、まだ、十年だ。

川が、荒れた日を、知らない人は、川を、そう呼べる。

わたしは、「そうだな」と、答える。

その通りだ。

ただ、わたしの足は、毎朝、川へ、向かう。

第二章 暗がりで見える目

わたしは、この町で、生まれた。

祖父母の、そのまた親が、ドイツの、小さな村から、来た人たちだ。

だから、わたしは、自分を、移民だと、思ったことは、あまり、ない。

それでも、この国は、移民の国だから、そう呼ばれても、おかしくはない。

体は、毎朝の一分に、合わせて、できた。

目が、暗がりで、よく、見える。

月のない、真っ暗な朝でも、水面の、高さの違いが、一センチ、わかる。

眼科の医者は、「夜目が、きくんですね」と、言った。

それは、生まれつきでは、ないと思っている。

二十七年、毎朝、暗い土手の下で、杭と水面を、見比べた。

目が、そのうち、覚えた。

首の後ろには、懐中電灯を持つ腕の、つり革のような筋が、右のほうだけ、浮いている。

配達の仕事は、足と、腕を、使う。

けれど、その筋は、杭に向かって、ライトを、同じ角度で、構えた形だ。

新聞を、ポストに、入れる指先は、勝手に、動く。

でも、川を見る目だけは、勝手では、動かない。

毎朝、わたしが、意識して、そちらへ、向ける。

第三章 弟が数えているもの

弟は、水位の記録を、数えている。

町の、小さな図書室に通って、古い新聞を、めくる。

この川の、最高の水位が、どの年に、いくつだったかを、年表に、書き写している。

「いちばん高かったのは、八十二年前だ」と、弟は、言う。

「二番目は、七十年前。父さんが、屋根の上にいた春だ」

わたしは、「そうか」と、答える。

弟の年表は、紙が、増えるごとに、厚くなる。

弟は、その紙の束を、嬉しそうに、見る。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

わたしが確かめているのは、「来ていない」ということだからだ。

来ていない、は、数字にならない。

毎朝、水は、いつもの刻みの、下にある。

それだけだ。

同じ町で、同じ川を見ている兄弟が、まったく別のものを、数えていた。

弟の数字は、過去へ、遡っていく。

わたしの一分は、毎朝、同じ場所に、戻る。

弟は、わたしの朝のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 父が話した日

話を聞いたのは、一度だけだ。

わたしが、二十五のとき。

父と、二人で、川岸の釣り場に、座っていた。

父は、普段、あまり、話さない。

釣り糸は、ほとんど、動かなかった。

水面に、夕方の雲が、ゆっくり、うつっていた。

その日は、なぜか、水面を見たまま、話しはじめた。

父が、十二のときの、春の話だ。

雨が、七日、続いた。

川は、じわじわと、土手を、のぼった。

七日目の夜に、水は、町の下の通りへ、あふれた。

父の家は、下の通りに、あった。

一階の台所に、水が、入ってきた。

父の母が、父の手を、引いて、二階へ、上がった。

二階の窓から、父は、暗い水が、通りを、流れていくのを、見た。

椅子が、流れた。

鶏小屋が、流れた。

どこかの家の、扉が、流れた。

その夜と、次の日の夜、二晩、屋根の上で、過ごした。

三日目の朝に、水が、引きはじめた。

「誰も、死ななかった」と、父は、言った。

「運が、よかった」

話は、それで、終わりだった。

父は、感情を、込めずに、話した。

あのときの、泥の匂いのことは、一言も、言わなかった。

わたしは、「そうか」と、だけ、答えた。

それ以上、何を言えばいいのか、わからなかった。

父の横顔を、見ることも、できなかった。

それから、父は、亡くなるまで、一度も、その話をしなかった。

翌朝から、わたしは、川を、見に行くようになった。

第五章 若い技師の話

去年の秋、川岸で、見知らぬ青年が、声をかけてきた。

作業服を着て、小さな機械を、抱えている。

河川を管理する役所の、若い技師だと、言った。

わたしは、ちょうど、杭の前に、立っていた。

懐中電灯を、水面に、向けていた。

見られたと思って、手を、止めた。

技師は、笑わなかった。

「毎朝、ここへ、来ていますよね」と、彼は、言った。

「わたしたちの、観測の記録にも、この時間に、ライトの光が、映っています」

わたしは、「癖で」と、答えた。

彼は、頼まれもしないのに、話した。

「この川は、上流の、大きな貯水池が、受け止めます」

「どんな雨が降っても、町までは、来ません」

「この杭は、十五年前から、役所の記録には、使われていません」

「いまは、機械が、水位を、はかっています」

彼は、それだけ言って、小さな機械の、ボタンを、押した。

わたしは、その場に立って、杭を、見ていた。

つまり、もう、必要は、ないのだ。

頭では、完全に、わかっていた。

だから、翌朝は、やめられると思った。

でも、そうではなかった。

翌朝も、三時に、トラックを出して、川岸へ、寄った。

杭の前に、立って、ライトを当てた。

水は、刻みの下に、あった。

胃が、ゆるんだ。

必要は、なくなった。

それでも、わたしは、確かめ続けている。

わたしが確かめているのは、水ではない。

ライトを消す、あの一分の終わりの、一瞬だ。

あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。

わたしの知らない、あの二晩の、屋根の上の十二の少年に、「もう、水は、来ない」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。

一日ぶんしか、言えない。

だから、毎朝、言う。

エピローグ

今朝も、三時に、起きた。

トラックに、新聞の束を、積んだ。

川岸に、寄って、杭の前に、立った。

懐中電灯で、水面を、照らした。

水は、刻みの、下に、あった。

息を、長く、吐いた。

ライトを消して、トラックに、戻った。

それから、最初の家の、ポストへ、新聞を、一部、そっと、差し入れた。

ソウルミッション358

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