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4_三度、触る

母から、来た年に書類をなくして熱の子を抱き二週間病院に入れなかった話を聞き、二十七年、毎朝コートの内側の書類入れを三回触ってきた配管工に、窓口の青年は、書類はいつでも出せると告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

4_三度、触る

朗読で聴く

第一章 玄関の三回

カナダの、バンクーバーの町で、配管工をしている。

古い家の、水回りを直す仕事だ。

壁の中の、古い管を、開けると、百年ぶんの、湿った匂いが、出てくる。

雨の多い町なので、仕事は、尽きない。

朝は、六時半に、家を出る。

玄関で、靴を履いて、コートを着る。

そのあと、わたしは、右手を、コートの内側に、入れる。

左の胸のあたりに、内ポケットがある。

そこに、古い革の書類入れが、入っている。

わたしは、その上から、三回、触る。

一回目で、形を、確かめる。

二回目で、厚みを、確かめる。

三回目で、ある、と、思う。

三回、触ったら、ドアを、開ける。

十秒もかからない。

触り終えると、背中が、すうっと、軽くなる。

軽くなってから、わたしは、外へ出る。

二十七年、一日も、休んだことがない。

出張の朝も、同じだ。

ホテルの廊下で、コートの内側に、手を入れて、三回、触る。

通りかかった人が、不思議そうな顔を、したことも、ある。

わたしは、四十七になる。

妻は、玄関で、わたしの胸元に、手が動くのを、見ている。

一度だけ、「何を、触ってるの」と、聞いた。

わたしは、「財布」と、答えた。

うそではない。

財布も、一緒に、入っている。

ただ、財布を、確かめているのでは、なかった。

第二章 すり切れた布

わたしは、台湾の、南の町で、生まれた。

五つのときに、母と一緒に、この町へ来た。

父は、先に来て、仕事を、していた。

特別な事情があったわけではない。

父が、こちらの工事の仕事に、呼ばれたからだ。

それだけの理由だ。

だから、自分のことを、苦労した移民だと、思ったことは、あまりない。

ここで、学校に行って、ここで、仕事を覚えた。

体は、毎朝の三回に、合わせて、できた。

右手の中指と薬指が、同じ向きに、少し、曲がっている。

コートの内側の、同じ場所が、いつも、先に、すり切れる。

新しいコートを買うたびに、わたしは、仕立て屋に頼んで、同じ位置に、内ポケットを縫い足してもらう。

仕立て屋の老人は、「また、同じ場所?」と、言う。

「そう、同じ場所」と、わたしは、答える。

古い革の書類入れは、角が、丸くなって、茶色が、薄くなった。

革の縫い目は、一度、ほどけかけた。

わたしは、自分で、太い糸を使って、縫い直した。

配管工の手は、そういうことだけは、得意だ。

母が、使っていたものだ。

母は、あの夜のあと、書類入れを、新しく、買い直した。

それが、これだ。

安い革で、においが、きつかったと、母は、言っていた。

いまは、中に、わたしの書類が、入っている。

パスポート、市民の証明書、保険の紙。

三回、触るたびに、その重みが、ちゃんと、あるのを、右手が、知る。

第三章 妻が数えているもの

妻は、子どもの背丈を、数えている。

居間の、柱の傷だ。

毎年、子どもの誕生日に、柱の前に立たせて、鉛筆で、線を引く。

線の横に、日付を、書く。

「去年より、四センチ」と、言う。

翌年は、「六センチ」と、言う。

わたしは、「そうか」と、答える。

柱の線が、増えるほど、妻の目は、細くなる。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

わたしが確かめているのは、「ある」ということだからだ。

ある、は、数字にならない。

右手の三回は、毎朝、同じ場所に、戻るだけだ。

同じ家で、同じ朝を迎える二人が、まったく別のものを、数えていた。

妻の線は、毎年、上へ、伸びていく。

わたしの三回は、毎朝、同じところを、なぞる。

妻は、わたしの朝のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 母が話した日

話を聞いたのは、一度だけだ。

わたしが、二十のとき。

母が、台所で、梨を、剥いていた。

その夜、母は、珍しく、昔の話を、した。

この町に来て、最初の十月のことだ、と、母は言った。

乗り合いのバスの中で、母の、鞄が、なくなった。

鞄の中に、母の書類が、すべて、入っていた。

パスポート、入国の紙、医者に診てもらうための、保険の紙。

全部が、一緒に、なくなった。

その週、五つだったわたしは、高い熱を、出した。

母は、わたしを抱いて、近くの病院へ、歩いて行った。

外は、冷たい雨が、降っていた。

傘は、母の肩と、わたしの頭の上で、少しだけ、足りなかった。

受付で、書類を、求められた。

母は、持っていなかった。

言葉も、まだ、うまく、通じなかった。

受付の人は、悪い人では、なかった。

ただ、「書類がないと、診られません」と、繰り返した。

母は、わたしを、抱いたまま、病院の入口の、長椅子で、夜を明かした。

朝になって、熱は、少し、下がった。

窓の外で、鳥が、鳴きはじめた。

母は、その声で、初めて、顔を上げたという。

再発行の窓口に、書類が戻ったのは、二週間あとだったという。

そのあいだ、母は、わたしを、湿らせた布で、冷やして、過ごした。

「あなたは、覚えてないでしょう」と、母は言った。

わたしは、「うん」と、答えた。

母は、梨の最後の一切れを、わたしの皿に、置いた。

甘くて、少し、冷たい梨だった。

わたしは、味を、よく、覚えている。

それきり、母は、二度と、その話をしなかった。

母が亡くなる前の年のことだ。

第五章 窓口の青年

去年の春、市の窓口へ、行った。

子どもの、新しい書類の手続きのためだ。

順番を待つあいだ、わたしは、無意識に、胸元へ、右手を、入れていた。

待合の椅子は、固くて、冷たかった。

隣の席では、赤ん坊が、泣いていた。

三回、触っていた。

窓口の、若い職員が、わたしの手元を、見ていた。

笑わなかった。

わたしの、順番が来て、書類を、出した。

彼は、画面を、少し、見て、顔を上げた。

頼まれもしないのに、話した。

「あなたの市民権は、十二年前に、取得済みです」

「記録は、すべて、電子で、残っています」

「紙を失くしても、一日で、再発行できます」

「もし、何もかも、失くしても、あなたの存在は、消えません」

彼は、それだけ言って、書類の処理を、続けた。

わたしは、その場に立って、右手を、胸から、離せなかった。

つまり、もう、必要は、ないのだ。

頭では、完全に、わかっていた。

だから、翌朝は、やめられると思った。

でも、そうではなかった。

翌朝も、玄関で、コートの内側に、右手を、入れた。

三回、触った。

背中が、軽くなった。

必要は、なくなった。

それでも、わたしは、確かめ続けている。

わたしが確かめているのは、書類ではない。

三回目の、あの十秒の終わりの、一瞬だ。

あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。

わたしが見たことのない、あの夜の、長椅子の母に、「もう大丈夫だ」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。

一日ぶんしか、言えない。

だから、毎朝、言う。

エピローグ

今朝も、六時半に、玄関で、靴を履いた。

コートを着て、右手を、内側に、入れた。

古い革の書類入れを、三回、触った。

息を、長く、吐いた。

それから、工具箱を、持って、ドアを、開けた。

外の、雨の匂いが、玄関に、入ってきた。

ソウルミッション358

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