3_白い薬箱
息子が三つの夜、吸入薬が空で二十分走った製材所の係は、十三年、毎朝薬箱を確かめてきたが、薬剤師は、息子の処方は六年前に終わり、薬は使われていないと告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

朗読で聴く
第一章 朝の蓋
オレゴンの、ポートランドの川沿いで、製材所の送り出しの係をしている。
切り出された板を、数えて、束ねて、トラックに、載せる。
杉と、松と、ダグラスもみの、匂いが、いつも、作業着に、染みついている。
川の向こうでは、雲が、低く、流れていく。
朝いちばんに、工場の鋸が、動きだす。
その音を聞くと、わたしの一日が、始まる。
わたしは三十九になる。
けれど、本当の一日は、その前に、始まる。
朝六時、まだ、家族が寝ているうちに、わたしは、洗面所の棚の、小さな白い箱を、開ける。
薬箱だ。
中に、吸入薬が、一本、立っている。
蓋を、外して、窓から、残りの量を、見る。
ある、と、思う。
蓋を、はめて、箱を閉める。
五秒くらいだ。
閉めたとき、喉の奥が、すっと、広がる。
広がってから、わたしは、やっと、顔を洗う。
十三年、一日も、休んだことがない。
旅行のときも、同じだ。
ホテルの洗面台に、小さな白い箱を、置いて、同じように、開ける。
妻は、「忘れ物の、確認?」と、笑った。
わたしは、「そう」と、答えた。
息子が、あの薬を使ったのは、もう、ずっと前の話だ。
それなのに、薬箱の中は、いつも、新しい。
期限が来る前に、わたしが、取り替えるからだ。
古い一本は、そのまま、捨てる。
捨てるときは、ごみ箱の底に、紙に包んで、入れる。
軽くなった箱を、手のひらに、のせると、胸の奥が、少しだけ、きしむ。
妻に、見られないように。
第二章 白いものを見ると
わたしは、この国で、生まれた。
両親は、ベトナムの、南の町から、来た人だ。
父は、わたしが十のとき、造船の仕事を見つけて、この町に、家族を連れてきた。
だから、わたしは、自分を、苦労した移民の子だと、思ったことは、あまりない。
ここで、育って、ここで、働いている。
体は、あの小さな白い箱に、合わせて、できた。
白くて、小さな、四角いものを、視界の端に、見つけると、一瞬、息を止める。
ティッシュの箱。
湿布の袋。
歯磨きの、外箱。
どれも、薬箱ではないと、頭では、わかっている。
けれど、目が、先に、動く。
息を止めて、確かめて、それから、吐く。
三十七の年に、会社の健康診断で、「呼吸が、浅いですね」と、言われた。
医者は、「ストレスですか」と、聞いた。
わたしは、診察室の、白い壁を、見つめた。
壁には、薬の、ポスターが、一枚、貼ってあった。
目を、そらした。
わたしは、「たぶん」と、答えた。
違う、と、思っている。
わたしの息は、毎朝、小さな白い箱を、見るたびに、いったん止まって、また、戻る。
十三年ぶんの、止まっては戻る呼吸だ。
浅くなるのは、あたりまえだと、思う。
第三章 息子が数えているもの
息子は、走った距離を、数えている。
高校の、陸上部で、長い距離を、走る。
毎晩、台所のテーブルで、小さなノートに、その日の走行距離を、書く。
「今日は、八キロ」と、言う。
翌日は、「今日は、十一キロ」と、言う。
わたしは、「そうか」と、答える。
距離が、伸びると、息子の目は、明るくなる。
縮むと、少し、黙る。
息子は、三つのときの、発作のことを、覚えていない。
四つのころから、少しずつ、頻度が減って、七つで、吸入薬を、持ち歩かなくなった。
十一で、医者から、「卒業です」と、言われた。
息子の肺は、いま、わたしの肺より、ずっと、強い。
去年の秋の大会では、最後の坂を、三人、抜いたと、聞いた。
わたしは、観客席で、息を、止めて、見ていた。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
わたしが確かめているのは、「ある」ということだからだ。
ある、は、数字にならない。
薬は、いつも、一本、そこにある。
同じ家で、同じ食卓を囲む二人が、まったく別のものを、数えていた。
息子の数字は、毎日、伸びていく。
わたしの一本は、毎朝、同じ場所に、立っているだけだ。
息子は、わたしの朝のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 午前二時
一度だけ、あった。
息子が、三つの、秋だった。
夜中の、午前二時に、息子の咳で、目が覚めた。
咳ではなかった。
息を、吸うたびに、細い笛のような音が、喉から、鳴っていた。
妻が、息子を、抱き上げた。
わたしは、洗面所に走って、棚の、小さな白い箱を、開けた。
吸入薬は、立っていた。
けれど、押しても、何も、出なかった。
先週、使い切ったのに、買い足すのを、わたしは、忘れていた。
妻は、何も言わなかった。
わたしは、車の鍵をつかんだ。
病院まで、二十分だった。
夜の、濡れた道を、わたしは、できるかぎり、飛ばした。
後部座席で、妻が、息子の背中を、さすっていた。
あの笛の音は、二十分のあいだ、一度も、止まらなかった。
病院の入口で、看護師が、息子を、受け取った。
処置は、すぐに、始まった。
朝になって、息子は、ベッドで、眠っていた。
先生は、「もう、大丈夫です」と、言った。
廊下の窓から、朝の光が、細く、入っていた。
わたしは、その光を、長い間、見ていた。
誰も、責めなかった。
妻も、先生も。
責めたのは、あのときのわたしの、小さな、白い箱だけだ。
それから、十三年になる。
第五章 薬剤師の話
去年の、冬の初めに、いつもの薬局へ、行った。
期限の近い吸入薬を、替えてもらうためだ。
カウンターの向こうの、年配の薬剤師は、わたしの顔を、見て、少し、黙った。
それから、棚の奥の、小さな箱を、取り出した。
「いつも、ありがとうございます」と、彼は、言った。
わたしは、「いえ」と、答えた。
彼は、頼まれもしないのに、話した。
「息子さんの処方は、六年前に、終わっています」
「いま、お渡ししているのは、処方ではなく、あなたが毎年、ご自分のお金で、買っていかれる分です」
「息子さんの主治医も、もう、必要ないと、言っています」
「これまでの薬は、一本も、使われていません」
わたしは、カウンターの前で、立ったまま、動けなかった。
つまり、もう、必要は、ないのだ。
息子の肺は、強い。
あの笛の音は、もう、鳴らない。
頭では、完全に、わかっていた。
だから、翌朝は、やめられると思った。
でも、そうではなかった。
翌朝も、六時に、洗面所で、薬箱を開けた。
窓から、残りの量を、見て、喉が、広がった。
必要は、なくなった。
それでも、わたしは、確かめ続けている。
わたしが確かめているのは、薬ではない。
蓋を閉める、あの五秒の終わりの、一瞬だ。
あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。
空の吸入薬を、押し続けた、二十六の男に、「もう大丈夫だ」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。
一日ぶんしか、言えない。
だから、毎朝、言う。
エピローグ
今朝も、六時に、洗面所へ行った。
小さな白い箱を、開けた。
吸入薬が、一本、立っていた。
窓から、残りの量を、見た。
息を、長く、吐いた。
箱を閉めて、顔を洗い、台所で、二つの弁当を、詰めた。
息子の靴が、玄関に、揃えて置いてあった。
わたしは、その靴の向きを、少しだけ、直して、ドアを、開けた。
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