2_木箱の鍵
三年目の冬、鍵をなくして玄関の階段で朝まで座り、五十三年、毎晩木箱の合鍵を確かめてきた老人に、隣家の少年は、母さんが三十年前から合鍵を持っていると告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

朗読で聴く
第一章 寝る前の一分
ワシントン州の、タコマの、港のある町で、一人で暮らしている。
わたしは七十八になる。
昔は、港の大きなクレーンを、動かしていた。
高い運転席から、船の腹に、箱を、一つずつ、降ろした。
風の強い日は、箱が、ゆっくり、回った。
わたしは、その回り方を、手の中で、感じていた。
いまは、年金で、小さな平屋の家に、住んでいる。
夜は、九時に、寝る。
寝る前に、いつも、玄関へ行く。
玄関の脇の壁に、小さな木の箱が、掛けてある。
蓋を、そっと、開ける。
中に、鍵が、一本、入っている。
この家の、合鍵だ。
わたしは、それを、見る。
親指の腹で、鍵の歯を、ゆっくり、なぞる。
歯が、あるのを、確かめる。
それから、蓋を閉める。
一分もかからない。
閉めたあと、肩が、すとんと、落ちる。
落ちてから、わたしは、やっと、寝室へ行く。
五十三年、一晩も、休んだことがない。
家が変わっても、箱は、変わっていない。
引っ越すたびに、同じ木箱を、玄関の脇に、掛けてきた。
箱は、もう、黒く、すり減っている。
蓋の蝶番は、一度、直してもらった。
直してくれた人は、「新しいのに、替えたら」と、言った。
わたしは、笑って、「このままで」と、答えた。
第二章 親指の腹
わたしは、フィリピンの、北のほうの村で、生まれた。
二十二のときに、この国へ来た。
同じ村の先輩が、港の仕事を、紹介してくれたからだ。
先輩は、いまも、同じ町に、住んでいる。
会えば、いつも、故郷の話ばかりになる。
特別な事情があったわけではない。
働けば、故郷の家族に、送金できる。
それだけの理由だ。
だから、自分のことを、苦労した移民だと、思ったことは、あまりない。
体は、箱に合わせて、変わった。
右手の親指の腹が、そこだけ、つるりと、固く、光っている。
五十三年、毎晩、同じ歯を、なぞったからだ。
医者は、「クレーンのレバーのせいでしょう」と、言った。
違う、と、わたしは、思っている。
レバーを握るのは、手のひらだ。
親指の腹だけが、光っているのは、毎晩、小さな鍵の歯を、なぞったからだ。
五十三年ぶんの、一分だ。
わたしの親指は、鍵の歯の数を、数えなくても、覚えている。
寝る前の暗い廊下でも、目を閉じていても、箱の蓋がどこにあるかを、右手が、勝手に、見つける。
亡くなった妻は、それを、「あなたの、お祈り」と、呼んだ。
妻は、八年前の、秋に、亡くなった。
最後の夜も、わたしは、箱を、開けた。
病院から帰った、真夜中だった。
わたしは、笑った。
お祈りでは、ないのだ。
でも、妻には、そう見えたのだと思う。
第三章 隣の老人が数えているもの
隣に、わたしと同じ年ごろの、老人が、住んでいる。
彼は、毎朝、庭の垣根に、寄りかかって、鳩を数えている。
「今日は、十一羽」と、言う。
翌日は、「今日は、九羽」と、言う。
わたしは、「そうか」と、答える。
鳩が増えると、彼は、機嫌がいい。
減ると、少し、黙る。
二十年、その横顔を、見てきた。
わたしは、何も、数えていない。
数えられないのだ。
わたしが確かめているのは、「ある」ということだからだ。
箱の中の鍵は、いつも、一本、そこにある。
一本が、二本でも、わたしは、数えない。
ただ、「いつもの一本がある」ことだけを、見る。
同じ通りで、同じ朝を迎える二人が、まったく別のものを、数えていた。
彼の数字は、毎朝、変わる。
わたしの一本は、毎晩、同じ場所にある。
鳩の数が、減った日、彼は、わたしに、小さな声で、言う。
「あいつら、どこへ行ったんだろう」
わたしは、「戻ってくるさ」と、答える。
彼は、わたしの夜のことを、知らない。
わたしが、言わなかったからだ。
第四章 あの夜の雪
一度だけ、あった。
この国に来て、三年目の、一月だった。
わたしは、港の近くの、古い下宿の、一部屋を借りていた。
その夜は、遅番で、帰りが、真夜中を過ぎた。
雪が、降っていた。
海から、湿った、冷たい風が、吹いていた。
街灯の下で、雪が、横に流れていた。
玄関の前で、上着のポケットに、手を入れた。
鍵が、なかった。
作業場の更衣室に、置き忘れたのだと、気づいた。
大家は、遠くの親戚の家に、泊まりに出ていた。
ほかの下宿人は、みんな、先に、寝ていた。
戸を叩いても、誰も、出てこなかった。
港まで戻る道は、凍っていて、歩いて一時間以上かかった。
わたしは、玄関の階段に、座った。
そのまま、朝まで、座っていた。
雪が、肩に積もった。
足の指の感覚が、なくなった。
朝の五時過ぎに、同じ下宿の、年配の女性が、内側から戸を開けて、わたしを見て、声をあげた。
熱い茶を、淹れてくれた。
ひとくち飲むと、舌の先から、体の奥まで、ゆっくり、ほどけていった。
誰も、責めなかった。
鍵をなくしたのは、わたしの不注意だった。
それでも、あの夜の、閉じた戸の前の雪の重さを、わたしは、五十三年、忘れない。
翌日、わたしは、金物屋へ行って、合鍵を作った。
店の主人が、鍵の歯を、削る音を、わたしは、じっと、聞いていた。
出来上がった鍵は、まだ、温かかった。
わたしは、それを、両手で、受け取った。
それから、五十三年になる。
第五章 少年の話
去年の春、隣の隣の家の、少年が、来た。
十歳くらいの、男の子だ。
庭のボールを、わたしの垣根の中に、投げ入れてしまったらしい。
取りに入ってきて、玄関の前で、立ち止まった。
そこに、わたしが、いた。
箱の蓋を、開けていた。
わたしは、見られたと思って、手を止めた。
少年は、笑わなかった。
ボールを、小脇に抱えて、箱の中を、まっすぐに、のぞいた。
「それ、鍵?」と、聞いた。
わたしは、「合鍵だよ」と、答えた。
彼は、頼まれもしないのに、話した。
「じいちゃんの家の鍵なら、うちの母さんが、二本、持ってるよ」
「ずっと前から。三十年くらい前から、らしいよ」
「この通りの家は、みんな、誰かが、預かってるって」
「だから、閉め出されても、大丈夫だよ」
少年は、それだけ言って、ボールを拾って、走って帰った。
わたしは、その場に立って、箱を、見ていた。
つまり、もう、必要は、ないのだ。
合鍵は、通りのあちこちに、ある。
閉め出される夜は、もう、来ない。
頭では、完全に、わかっていた。
だから、その夜は、やめられると思った。
でも、そうではなかった。
その夜も、寝る前に、玄関へ行って、蓋を開けた。
親指で、歯をなぞって、肩の力が、すとんと、落ちた。
必要は、なくなった。
それでも、わたしは、確かめ続けている。
わたしが確かめているのは、鍵ではない。
蓋を閉める、あの一分の終わりの、一瞬だ。
あの一瞬を、わたしは、毎晩、取りに行っている。
雪の降る玄関の階段に、朝まで座っていた、二十五の男に、「もう、入れるよ」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。
一晩ぶんしか、言えない。
だから、毎晩、言う。
エピローグ
今夜も、九時に、玄関へ行った。
木箱の蓋を、そっと、開けた。
黒くなった鍵が、一本、入っていた。
親指の腹で、歯を、なぞった。
息を、長く、吐いた。
それから、蓋を閉めて、玄関の明かりを消し、寝室へ、歩いていった。
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