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1_二本の牛乳

来て一年目、子どもに牛乳を買えない一週間があり、三十二年、毎朝冷蔵庫の牛乳が二本あるのを確かめてきた除雪作業員に、店長は、あの週、娘が毎朝飲んでいたと告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

1_二本の牛乳

朗読で聴く

第一章 冷蔵庫の前

ミネソタの、ミネアポリスの町で、公園の除雪をしている。

十二月から三月まで、夜明け前の公園道を、小さな除雪機で、端から端まで、走る。

雪は、音を、吸う。

だから、除雪機の音だけが、公園の木々のあいだを、ゆっくり、通っていく。

犬を連れた人が、時どき、手を振ってくれる。

わたしは六十一になる。

朝は、四時に起きる。

まだ暗い台所で、わたしは、最初に、冷蔵庫を開ける。

扉の内側の、いちばん下の棚だ。

そこに、牛乳が、二本、立っている。

二本あるのを、見る。

それから、扉を閉める。

四秒くらいだ。

閉めたとき、胸のあたりが、すっと、緩む。

緩んでから、わたしは、やっと、上着を着る。

三十二年、一日も、休んだことがない。

二本の牛乳は、わたしたち夫婦だけでは、飲みきれない。

妻は、コーヒーに少し入れるだけだ。

わたしは、ほとんど、飲まない。

だから、毎週、半分は、捨てることになる。

妻は、そのことを、一度だけ、言った。

わたしは、「安いから」と、答えた。

妻は、それ以上、聞かなかった。

聞かない人だ。

そこに、わたしは、三十年、甘えてきた。

うそではない。

ただ、安いから二本にしているのではない、とは、言わなかった。

第二章 首の角度

わたしは、韓国の、南の海辺の町で、生まれた。

二十九のときに、妻と、二つになる娘を連れて、この国へ来た。

妻の兄が、先に来ていたからだ。

特別な事情があったわけではない。

向こうの仕事より、こちらの仕事のほうが、給料がよいと聞いた。

それだけの理由だ。

だから、自分を、苦労した移民だと、思ったことは、あまりない。

体は、冷蔵庫の高さに、合わせて、できた。

いちばん下の棚を見るために、毎朝、腰を折って、首を前に出す。

その角度を、三十二年、繰り返した。

いまは、首の後ろに、一本、太い筋が、浮いている。

医者は、「雪かきのせいだ」と、言う。

違う、と、わたしは思っている。

雪かきは、体の前を、使う。

首の後ろの筋は、毎朝、同じ角度で、小さな扉の中をのぞいた、三十二年ぶんだ。

夏でも、冬でも、同じ角度で、のぞく。

暑い日は、冷蔵庫の冷気が、頬に当たって、気持ちがいい。

寒い日は、扉を開けたときの、白い息が、首のまわりに、広がる。

雪かきの手袋を、はめたままで、開けるときもある。

手袋の指先に、取っ手の冷たさが、じんと、伝わる。

どちらの日も、わたしは、同じ顔を、している。

妻に、聞いたことはない。

たぶん、見ていない。

第三章 妻が数えているもの

妻は、請求書の枚数を、数えている。

電気、水道、ガス、保険、固定資産税、車の登録。

毎月、郵便受けに届く、封筒の枚数を、月の初めに、テーブルに並べる。

「今月は、九枚」と、言う。

翌月は、「今月は、八枚」と、言う。

わたしは、「そうか」と、答える。

封筒が、減ると、妻の肩は、少し下がる。

増えると、肩は、少し上がる。

三十年、その肩を、見てきた。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

わたしが確かめているのは、「ある」ということだからだ。

ある、は、数字にならない。

牛乳は、いつも、二本、そこにある。

賞味の日付だけは、棚に入れるときに、必ず見る。

古いものが、前。新しいものが、後ろ。

その順番は、三十二年、一度も、乱したことがない。

二本が、一本でも、三本でも、わたしは、数えない。

ただ、「いつもの二本がある」ことだけを、見る。

同じ家で、同じ朝を迎える二人が、まったく別のものを、数えていた。

妻の数字は、毎月、変わる。

わたしの二本は、毎朝、同じ場所にある。

妻は、わたしの朝のことを、知らない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 あの一週間

一度だけ、あった。

この国に来て、一年目の冬だった。

給料日は、金曜日で、その前の週の月曜日には、財布の中に、小銭しか、残っていなかった。

家賃は、払ってあった。

米も、少しは、あった。

けれど、牛乳を買うお金だけが、なかった。

娘は、二つだった。

毎朝、冷蔵庫の前に立って、扉の取っ手を、小さな両手で、引っぱった。

まだ、うまく言えない言葉で、「ミルク」と、言った。

開けても、そこには、何も、入っていなかった。

わたしは、「あした」と、言った。

あしたも、同じだった。

一週間、わたしは、毎朝、娘に、「あした」と、言った。

妻は、何も、言わなかった。

湯を沸かして、少し冷まして、娘に、飲ませていた。

金曜日に、給料が出た。

わたしは、仕事の帰りに、近所の食料品店で、牛乳を、二本買った。

一本ではなく、二本だった。

その夜、娘は、一本の半分を、飲んだ。

わたしは、それを、台所の暗がりで、見ていた。

誰も、責めなかった。

わたしを責めたのは、わたしだけだ。

それから、三十二年になる。

娘は、もう三十四で、別の州に住んでいる。

電話では、仕事の話ばかりだ。

牛乳の話は、一度も、出たことがない。

牛乳を欲しがる年は、とうに、過ぎた。

第五章 店長の話

去年の十一月、その食料品店の、店長が、わたしに、声をかけた。

店は、代替わりして、先代の息子が、店長をしている。

わたしの顔を、レジで、毎週、見てきた人だ。

その日、彼は、牛乳の棚の前で、わたしを呼び止めた。

「あなたに、話したいことが、ずっと、あったんです」

わたしは、身構えた。

彼は、頼まれもしないのに、話した。

「三十二年前の、冬のことです。うちの親父が、言っていました」

「牛乳を買えない週があった、若い夫婦がいたと」

「親父は、毎朝、小さい女の子が、通りを歩いてくるのを、見ていたそうです」

「だから、レジの下に、二本、取っておいたと」

「女の子が来たら、渡すように、店の者に、言っていたと」

「お父さんには、言うな、とも」

わたしは、立ったまま、動けなかった。

娘は、あの一週間、毎朝、牛乳を、飲んでいた。

わたしの知らないところで、毎朝、二本の、冷たい牛乳を。

つまり、あの一週間にも、わたしの知らない、必要の埋め方があった。

いまは、冷蔵庫に、牛乳を、いくらでも、入れられる。

もう、必要は、ないのだ。

頭では、完全に、わかっていた。

だから、翌朝は、やめられると思った。

でも、そうではなかった。

翌朝も、四時に、台所に立って、冷蔵庫を開けた。

二本あるのを、見て、胸が、緩んだ。

必要は、なくなった。

それでも、わたしは、確かめ続けている。

わたしが確かめているのは、牛乳ではない。

扉を閉める、あの四秒の終わりの、一瞬だ。

あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。

空の冷蔵庫の前で、「あした」と、言った二十九の男に、「もう大丈夫だ」と、言えるのは、わたしだけだ。

一日ぶんしか、言えない。

だから、毎朝、言う。

エピローグ

今朝も、四時に、起きた。

暗い台所で、冷蔵庫を開けた。

二本の牛乳が、立っていた。

扉を閉めて、息を、長く吐いた。

それから、もう一度、扉を開けて、一本を取り出した。

妻の、コーヒーのカップに、白い牛乳を、少しだけ、注いだ。

湯気が、上がった。

わたしは、自分の、上着を着て、除雪機の鍵を持って、まだ暗い公園へ、出ていった。

ソウルミッション358

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