← あなたの魂のテーマを探す に戻る

0_押して、開く

二十六の冬、外から鎖で止められた非常口に四十分閉じ込められ、三十二年、毎朝その押し棒を押してきた庫内作業員に、検査員は、もう鎖はかけられない造りだと告げた。必要がなくなっても、確かめ続ける。確かめているのは危険ではなく、確かめ終わった一瞬。

0_押して、開く

朗読で聴く

第一章 朝の四秒

マサチューセッツの、ニューベッドフォードの、港のある町で、冷凍倉庫の庫内作業をしている。

魚の箱を、積んで、降ろして、数える仕事だ。

庫内は、氷点下の二十度で、息が白く、まつげが凍る。

港には、朝いちばんに、漁船が戻ってくる。

その魚を、凍らせて、しまうのが、わたしたちの仕事だ。

海のにおいと、霜のにおいが、いつも、鼻の奥に残っている。

わたしは五十八になる。

朝は、六時前に、倉庫の裏口から入る。

着替える前に、いつも、先に、非常口へ行く。

庫内の奥の、重い鉄のドアだ。

ドアの内側に、横に長い、鉄の押し棒がついている。

わたしは、それを、両手で、ぐっと押す。

ドアは、ごとんと鳴って、外の冷たい空気が、細く入ってくる。

開いたのを、見る。

それから、閉める。

時間にして、四秒くらいだ。

四秒を終えると、肩から力が抜ける。

そこでやっと、わたしは、手袋をはめて、仕事に入る。

三十二年、一日も欠かしていない。

休みの日は、倉庫が閉まっているので、できない。

それがいちばん、落ち着かない日だと、思う。

せめて、家の裏口のドアを、一度だけ、押してみる。

同じ班の若い連中は、笑う。

「毎朝それ、何のおまじない」と、言われる。

わたしは、「癖だよ」と、答える。

うそではない。

ただ、癖になった理由を、言ったことはない。

第二章 鉄の押し棒に合わせて

わたしは、ブラジルの、南のほうの町で生まれた。

二十四のときに、この国へ来た。

叔父が、港の仕事を紹介してくれたからだ。

特別な事情があったわけではない。

給料が、あちらの三倍あると聞いて、飛行機に乗った。

それだけの理由だ。

だから、自分のことを、苦労した移民だと思ったことは、あまりない。

体は、いつのまにか、押し棒の高さに合わせて、できあがった。

右の肩が、少し上がっている。

シャツを買うとき、店員に、仕立て直しを、すすめられる。

わたしは、「このままでいい」と、断る。

医者は、「仕事のせいですね」と、言った。

それは違う、と、わたしは思っている。

魚の箱は、左右、同じ数だけ、持っている。

右の肩だけが上がったのは、毎朝、同じ高さの鉄の棒を、同じ向きに、押してきたからだ。

押すとき、右足を、半歩、前に出す。

その半歩の位置にだけ、床のゴムの目が、ほんの少し、すり減っている。

三十二年ぶんの、半歩だ。

わたしの足は、その窪みを、目を閉じていても、見つけられる。

第三章 妻が数えているもの

妻は、日にちを数えている。

故郷に帰るまでの、残りの日数だ。

毎年、夏の終わりに、二人で一か月だけ、帰る。

妻は、帰る日が決まると、台所のカレンダーに、小さな丸をつけはじめる。

「あと百四十日」と、朝のコーヒーのときに、言う。

翌日は、「あと百三十九日」と、言う。

わたしは、「そうか」と、答える。

妻の数字は、毎日、ひとつずつ減っていく。

減るほどに、妻の顔は、明るくなる。

わたしは、何も、数えていない。

数えられないのだ。

わたしが確かめているのは、「何も起きない」ということだからだ。

起きなかった朝は、記録に残らない。

三十二年ぶんの、起きなかった朝は、どこにも、書かれていない。

同じ台所で、同じコーヒーを飲んでいる二人が、まったく別のものを数えていた。

妻の数字は、帰る日に向かって、減る。

わたしの四秒は、毎朝、同じ場所に、戻るだけだ。

妻は、わたしの朝のことを、知らない。

もし、知ったら、妻は、きっと、何も言わずに、わたしのコーヒーを、熱くしてくれる。

それが、わかるから、なおさら、言えない。

わたしが、言わなかったからだ。

第四章 外から鎖

一度だけ、あった。

この国に来て、二年目の冬だった。

前の職場は、別の港の、古い冷凍倉庫だった。

夜勤の最後の日に、わたしは、一人で、庫内に残っていた。

帰ろうとして、非常口に向かった。

重いドアは、押しても、びくともしなかった。

外から、何かが、かかっていた。

あとで聞くと、ドアの外側に、鎖がかけられていたらしい。

盗みが続いたので、誰かが、勝手に、かけた。

わたしが庫内にいるとは、誰も、知らなかった。

氷点下の二十度で、四十分。

叫んでも、声は、分厚い壁に、吸い込まれた。

足の指の感覚が、なくなった。

四十分あとに、朝いちばんの配送の運転手が、鎖に気づいて、外してくれた。

外の空気が、細く入ってきた。

あの細い光を、わたしは、一生、忘れない。

光は、細くて、青白くて、冷たかった。

それなのに、あれほど、暖かいものを、見たことがない。

わたしは、運転手に、礼を言ったのかどうかも、覚えていない。

誰も、責められなかった。

鎖をかけた人は、わたしがいると、知らなかっただけだ。

それから、三十二年になる。

いまの倉庫の非常口の前に、わたしは、毎朝、立つ。

第五章 検査の日

去年の秋、消防署の検査員が、倉庫に来た。

年に二度の検査だ。

若い女性で、紙の束を、腕に抱えていた。

彼女は、庫内を、端から端まで、歩いた。

奥の非常口の前で、立ち止まった。

そこに、わたしが、いた。

朝の四秒の、最中だった。

わたしは、見られたと思って、手を止めた。

彼女は、笑わなかった。

紙の束を、胸に抱え直して、わたしの手元を、まっすぐに見た。

「毎朝、押しているんですね」と、言った。

わたしは、「癖で」と、答えた。

彼女は、少しだけ、うなずいた。

それから、頼まれてもいないのに、話した。

「この建物の非常口は、外から鎖も錠も、かけられない造りなんです」

「いまは、法律で、禁止されています」

「わたしたちは、年に二度、全部の非常口を、自分で押して、試します」

「この前の春も、きょうも、全部、開きました」

彼女は、それだけ言って、次の棚に行った。

わたしは、その場に立って、鉄の押し棒を、見ていた。

つまり、もう、必要は、ないのだ。

頭では、完全に、わかっていた。

だから、翌朝は、やめられると思った。

でも、そうではなかった。

翌朝も、六時前に、裏口から入って、非常口の前に立った。

いつもの床の窪みに、右足を置いた。

足は、考える前に、そこへ行っていた。

押して、開いたのを、見て、肩の力が抜けた。

必要は、なくなった。

それでも、わたしは、確かめ続けている。

わたしが確かめているのは、鎖ではない。

開いたのを見る、あの四秒の終わりの、一瞬だ。

あの一瞬を、わたしは、毎朝、取りに行っている。

四十分間、細い光を待っていた二十六の男に、「もう大丈夫だ」と、言ってやれるのは、わたしだけだ。

一日ぶんしか、言えない。

だから、毎朝、言う。

エピローグ

妻は、「あと百十二日」と、言った。

わたしは、「そうか」と、答えた。

今朝も、六時前に、裏口から入った。

凍った床の、半歩の窪みに、右足を置いた。

両手で、鉄の棒を、ぐっと押した。

ごとんと、ドアが鳴った。

細い冷たい風が、頬に当たった。

わたしは、息を、長く吐いた。

それから、ドアを閉めて、手袋をはめて、魚の箱の山へ、歩いていった。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所