9_古い電卓
九九が言えないことを五十二年隠し、四十年、電卓を叩いて駄菓子屋の勘定をしてきた店主に、子どもは、ここのおつりは一度も間違ったことがないと言った。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 言えない九九
長野の、小さな町で、駄菓子屋をやっている。
わたしは六十になる。
九九が、言えない。
七の段と、八の段が、とくに、あやしい。
七、八、五十六。
その、五十六が、いつも、出てこない。
五十六、五十六、と、頭の中で、言ってみる。
次の瞬間、五十四に、すり替わる。
六、七、四十二。
四十二も、あやしい。
六の段も、あやしい。
七の段は、その中でも、いちばん、あやしい。
口に出そうとすると、舌が、重くなる。
数字が、口の中で、ばらばらになる。
紙に書けば、わかる。
紙に書けば、少なくとも、誰かに、聞かれずに済む。
足していけば、わかる。
指を、一本ずつ、折りながら、数えれば、間違えない。
間違えないが、時間が、かかる。
店先で、その時間を、見せるわけには、いかない。
七が、八つ。七、十四、二十一、二十八、と、数えていけば、答えに、たどり着く。
けれど、口に出して、すらすらと、言うことができない。
小学二年生の、二学期のことだ。
九九の、暗唱の、テストがあった。
一人ずつ、教室の前に、立って、言う。
わたしの番が、来た。
七の段で、止まった。
七、七、四十九。
その次が、出てこなかった。
教室が、静かになった。
黒板の、チョークの粉が、窓の光に、舞っていた。
後ろの席の子の、鉛筆を、置く音が、聞こえた。
わたしは、その場で、泣いた。
涙が、答案用紙に、落ちて、鉛筆の字が、にじんだ。
隣の子が、そっと、ハンカチを、貸してくれた。
わたしは、それを、返しそびれた。
先生は、「いいよ、座りなさい」と言った。
やさしい声だった。
けれど、それが、かえって、いやだった。
その日から、わたしは、九九という言葉を、聞くだけで、胃が、重くなった。
五十二年、わたしは、そのことを、誰にも、言っていない。
第二章 電卓の音
駄菓子屋は、小銭の商売だ。
一つ、十円の、ラムネ。
青い瓶の、ラムネ。
ビー玉が、からん、と鳴る。
一つ、三十円の、ガム。
五つ買えば、いくら。
七つ買えば、いくら。
お釣りは、いくら。
そのたびに、わたしは、古い電卓を、手に取る。
店の、レジの、横に置いてある。
四十年使って、数字の、ボタンの印字が、消えかけている。
子どもたちは、わたしが電卓を叩く姿を、見ている。
「お店の人、いつも、電卓だね」
そう言われるたびに、わたしは、「間違えると、いけないから」と答える。
それは、嘘ではない。
けれど、本当の理由でも、ない。
電卓を叩く、わたしの右手は、いつも、少し、震えている。
数字の、一つ一つを、頭の中で、足し算に、変えているからだ。
七が、四つ。
七、十四、二十一、二十八。
その作業を、わたしは、電卓の、音に、隠している。
ピ、ピ、ピ、という音の中に、わたしの、頭の中の、足し算が、紛れる。
お客さんは、電卓の画面を、見ている。
わたしの、口の動きは、見ていない。
わたしは、唇を、ほとんど動かさずに、数えている。
誰にも、聞かれない。
四十年、そうしてきた。
店を開けた、最初の日から、変えていない。
電卓の電池は、年に二度、替える。
第三章 近所の店が数えているもの
店の向かいの、八百屋の主人は、その日の、お客さんの数を、数えている。
「今日は、百二十人」と、夕方に、教えてくれる。
わたしは、お客さんの数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、暗算を、避けた回数のほうだ。
一日に、およそ、八十回。四十年で、百万回を、超える。
数えたことはないが、それくらいだと思う。
同じ通りに、向かい合う二人が、まったく別のものを数えていた。
八百屋さんの百二十は、商売のものだ。
わたしの数えている回数は、誰にも、言えない。
一度、八百屋さんに、言われた。
「あんたの店は、おつりが、正確でいいね」
わたしは、「電卓のおかげです」と答えた。
八百屋さんは、「あはは」と笑った。
それだけだった。
その日の夜、わたしは、店の、シャッターを下ろしてから、しばらく、電卓を、眺めていた。
第四章 間違えない
去年の四月、学校帰りの子どもたちが、店に、来た。
三年生くらいの、男の子が、三人。
その中の、一番背の高い子が、わたしに、言った。
「ここのおつりは、一度も、間違ったことがないよ」
わたしは、顔を、上げた。
「うちのお母さんが、言ってた。ほかの店は、たまに、間違えるけど、あそこは、絶対、間違えないって」
男の子は、続けた。
「お母さん、昔から、ここで、買ってたんだって。お母さんが子どものころから、一度も、間違えたことがないって」
わたしは、胸が、ぐっと、詰まった。
「だから、お店の人」
男の子は、少し照れて、笑った。
「ずっと、続けてね」
わたしは、頭を、下げた。
声が、出ない。
喉の奥が、熱かった。
声が、出なかった。
子どもたちは、ガムを、三つ、買っていった。
三十円が、三つ。
子どもたちは、小銭を、手のひらに、並べている。
汗ばんだ、百円玉が、一枚、混じっていた。
わたしは、電卓を、叩いた。
九十円。
その数字が、ピ、ピ、ピ、という音と、一緒に、出た。
四十年、わたしが、隠すために、叩いてきた電卓の、音が、町の子どもたちの、信頼に、なっていた。
わたしは、それを、誰にも、知られないつもりでいた。
第五章 減らない
その夜、わたしは、店の、奥の座敷で、一人、座っていた。
電卓を、膝に、置いた。
少し、軽くなると、思っていた。
誰も、わたしを、責めていなかった。
むしろ、頼りにされていた。
わたしは、試しに、七の段を、口の中で、唱えてみた。
七、七、四十九。
その次で、止まった。
何も、変わらなかった。
一日、考えた。
夜になって、ようやく、わかった。
わたしが隠していたのは、子どもたちの目からではない。
自分の目からだ。
九九が言えない、自分を、わたしが、いちばん、見ている。
でも、そうではなかった。
謝る相手はいない。恥は、減らない。
九九が言えないことで、誰かに、迷惑をかけたのではない。
五十二年、隠し続けたことで、傷ついた人も、いない。
責められないから、許される場所もない。
九九が言えないことよりも、それを、五十二年、隠し続けたことのほうが、いまは、恥ずかしい。
エピローグ
今朝も、わたしは、店の、シャッターを、上げた。
レジの横に、古い電卓が、置いてある。
わたしは、それを、手に取った。
表面の、印字の消えかけた、ボタンを、指で、なでた。
四十年、叩いた、数字のところだけ、ボタンが、すり減っていた。
七と、八と、六のボタンだった。
わたしは、電卓を、レジの横に、戻した。
それから、紙とペンを、出した。
七の段を、書いた。
七、十四、二十一、二十八、三十五、四十二、四十九、五十六、六十三。
書いて、眺めた。
子どもたちが、店に来た。
靴の音が、ばたばたと、店先に、駆け込んできた。
ランドセルの、金具が、かちゃかちゃ、鳴っている。
ガムを、五つ、買った。
わたしは、電卓を、叩いた。
明日の朝も、わたしは、電卓の横に、七の段を書いた紙を、置いておく。
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