8_浮かばない人
海辺で育ちながら五十年、泳げないことを隠し、毎朝救命胴衣の紐を確かめてきた荷役に、若い漁師は、泳げない人こそ落ちないやり方を知っていると親方が言ったと告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 海の町で
高知の、室戸の港で、荷役の仕事をしている。
わたしは五十七になる。
海のそばで生まれて、海のそばで、育った。
それなのに、泳げない。
一メートルも、浮かない。
水に、顔を、つけることもできない。
小学校の、プールの授業が、いやだった。
高知の子どもは、泳げて、当たり前だった。
夏になると、みんな、川や海で、泳いだ。
七月の終わりには、体が、褐色に、焼けた。
わたしだけが、白かった。
それが、わたしの、夏の、印だった。
毎年、九月になると、みんなの黒さが、少しずつ、薄れていく。
日に焼けない理由を、聞かれたことは、ない。
泳げない子は、わたしの学年に、一人もいなかった。
一人も、だ。
わたしを、除いて。
あの町で、泳げないことは、とても、目立つことだった。
少なくとも、九歳のわたしには、そう思えた。
四年生の夏、先生が、プールの縁に、立ったまま、言った。
「入ってみなさい」
わたしは、足を、水に、つけた。
それから、動けなくなった。
先生は、わたしの顔を、少し、見ていた。
夏の日差しが、プールの水面に、きらきら、跳ねていた。
わたしの足の指は、水に、触れたまま、固まっていた。
それから、「今日は、見学」と言った。
その日から、わたしは、プールの日は、いつも、見学になった。
理由は、いつも、同じだった。
「耳が、痛い」
耳は、痛くなかった。
けれど、先生は、何も、聞かなかった。
五十年近く、わたしは、水の中に、入っていない。
第二章 胴衣の紐
港の仕事は、水の上で、する。
朝の四時には、港に、電灯が、ともる。
漁師たちの、長靴の音が、コンクリートに、響く。
わたしは、その音を、聞きながら、胴衣を、着る。
沖にとまっている、漁船から、荷を、受け取る。
桟橋と、船のあいだに、渡し板を、かける。
揺れる板の上を、歩く。
わたしは、いつも、救命胴衣を、つけている。
誰にも、指摘されたことは、ない。
本当は、安全のために、みんなが、つけるべきものだ。
けれど、港の男たちの多くは、つけていない。
つけているのは、わたしと、新人の何人かだけだ。
わたしは、胴衣の、紐を、毎朝、三回、確かめる。
紐の結び目は、固く、ねじってある。
親指で、結び目を、なぞる癖がある。
一回目は、家で。
二回目は、港で。
三回目は、渡し板の前で。
紐が、ほどけたことは、ない。
それでも、確かめる。
夜、寝る前にも、胴衣を、壁に掛けて、紐を、見る。
水の夢を、よく、見る。
夢の中の海は、いつも、真っ黒だ。
底が、見えない。
足の下で、何かが、静かに、わたしを、待っている。
足もとが、ふっと、なくなる夢だ。
目が、覚めたとき、手のひらが、汗で、濡れている。
五十年、同じ夢だ。
大人の、男たちに、笑われたことは、一度もない。
それなのに、わたしは、笑われる日を、想像している。
第三章 仲間が数えているもの
港の、荷役の仲間に、四十年の付き合いの、人がいる。
名前は、山中さんという。
山中さんは、その日に、捌いた荷の、数を、数えている。
「今日は、八十二箱」と、夕方に、教えてくれる。
わたしは、箱の数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、水に落ちた人の、数のほうだ。
四十年のあいだに、港で、落ちた人は、七人。
全員、助かった。
助けたのは、いつも、誰かの、泳げる体だった。
わたしは、岸から、見ていた。
縄を、投げた。
船べりに、肘をついて、狙いを定めて、投げた。
縄の先が、水面に、落ちる音が、いまも、耳に、残っている。
それしか、できなかった。
同じ港の、同じ桟橋に、立つ二人が、まったく別のものを数えていた。
山中さんの八十二は、仕事のものだ。
わたしの覚えている、七人は、誰にも、言えない。
一度、山中さんに、聞かれた。
「あんた、いつも、胴衣、つけてるね」
わたしは、「癖で」と答えた。
山中さんは、「えらいよ」と言った。
それは、褒め言葉だったのか、同情だったのか。
どちらでも、わたしは、少し、傷ついた。
それだけだった。
第四章 波を読む
去年の八月、台風が、近づいていた。
沖の漁船が、港に戻る前の、午後だった。
若い漁師が、桟橋に、立っていた。
潮焼けした、首筋に、汗が光っていた。
手には、使い込んだ、軍手を、はめていた。
二十代の、日に焼けた人だ。
わたしに、声をかけた。
「親方が、言ってました」
わたしは、顔を、上げた。
「あんたが、いちばん、波を、読むって」
わたしは、聞き返した。
「泳げない人は、落ちないやり方を、誰よりも、知ってるって」
若い漁師は、言った。
「親方、あんたが泳げないこと、知ってるんです」
わたしは、息を、止めた。
「前から、知ってたそうです。口に出したことは、ないけど」
若い漁師は、続けた。
「泳げる人は、落ちても、なんとかなると思ってる。だから、あんたの言うとおりに、渡し板を、かけ直すのが、いちばん安全だって、親方が」
わたしは、胴衣の紐に、手を、やった。
五十年、わたしは、泳げないことを、隠していた。
その、泳げない体が、港の人たちの、命を、守っていた。
誰も、そのことを、責めなかった。
誰も、笑わなかった。
それなのに、わたしは、胸の奥で、いつまでも、ひとり、うつむいている。
それなのに、わたしは、いまも、笑われる日を、想像している。
第五章 減らない
その夜、わたしは、家の、風呂に、入った。
湯船に、足を、入れた。
腰まで、つかった。
肩まで、つかるのは、できなかった。
湯面が、胸のところで、揺れた。
揺れるだけで、体が、こわばった。
少し、軽くなると、思っていた。
誰も、わたしを、責めていなかった。
むしろ、頼りにされていた。
けれど、何も、変わらなかった。
一日、考えた。
夜になって、ようやく、わかった。
わたしが隠していたのは、港の人たちの目からではない。
自分の目からだ。
泳げない自分を、わたしが、いちばん、見ている。
でも、そうではなかった。
謝る相手はいない。恥は、減らない。
泳げないことで、誰かに、迷惑をかけたのではない。
五十年、水に入らなかったことを、責める人も、いない。
責められないから、許される場所もない。
泳げないことよりも、それを、五十年、隠し続けたことのほうが、いまは、恥ずかしい。
エピローグ
今朝も、わたしは、港に、行った。
胴衣の紐を、三回、確かめた。
渡し板の前で、足を、止めた。
若い漁師が、船の上から、手を、振った。
わたしも、手を、振り返した。
それから、桟橋の、端に、しゃがんだ。
足もとで、波が、桟橋の杭を、洗っていた。
ちゃぽ、ちゃぽ、という音が、規則正しく、続いていた。
海面を、のぞいた。
水は、黒く、深く、揺れていた。
手を、伸ばした。
指先を、そっと、水に、つけた。
冷たかった。
すぐに、手を、引いた。
けれど、指先に、海の水が、残っていた。
それを、胴衣の、胸のところで、拭いた。
渡し板の上を、歩いて、荷を、受け取った。
明日の朝も、わたしは、桟橋の端で、指先を、水に、つける。
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