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7_針のない昼

針の時計が読めないことを三十九年隠し、光と音で時間を知ってきた製麺所の配達人に、食堂の老店主は、あんたの車の音で町は昼を知ると告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

7_針のない昼

朗読で聴く

第一章 読めない針

群馬の、山沿いの町で、製麺所の配達をしている。

わたしは四十六になる。

針のついた時計が、読めない。

腕時計も、壁の時計も、駅の時計も。

丸い盤を見ると、頭の中が、白くなる。

数字が並んだ時計なら、読める。

時間を言われれば、わかる。

けれど、丸い盤の上に、長い針と、短い針が、並んでいると、頭が、止まる。

どちらが分で、どちらが時なのか。

どこから、どこまでが、何分なのか。

その場で、考えなければならない。

考えているあいだに、時間は、進んでしまう。

黙って、固まっている時間が、いちばん、長く感じる。

誰かが、「どうしたの」と聞く前に、わたしは、笑ってごまかす。

小学校の、二年生のときのことだ。

算数の時間に、先生が、黒板に、大きな時計の絵を、描いた。

「この時計は、何時でしょう」

誰かが、手を挙げた。

わたしは、手を挙げなかった。

教室の、後ろの壁にも、同じ形の時計が、かかっていた。

わたしは、それを、見ることができなかった。

見ても、わからないからだ。

あの日、先生は、わたしに、当てなかった。

わたしは、それを、ありがたいと、思おうとした。

けれど、胸の奥では、別の言葉が、浮かんでいた。

わたしは、そこに、いないことに、されたのだ。

それが、かえって、こたえた。

先生は、気づいていたのだと思う。

あの日の算数の授業が、いまでも、夢に出る。

黒板の、大きな時計の絵と、教室の後ろの、壁の時計が、二つ、並んで、わたしを、見ている夢だ。

針は、どちらも、動いていない。

気づいていて、見逃した。

三十九年、わたしは、そのことを、誰にも、言っていない。

第二章 音と光

製麺所の配達は、時間に、きびしい。

昼の、十一時四十五分までに、食堂に、麺を、届ける。

それが、決まりだ。

わたしは、デジタルの時計を、手首に、巻いている。

腕時計の、数字が、そのまま、読めるからだ。

車の時計も、数字だ。

携帯電話も、数字だ。

わたしの暮らしは、数字の時計だけで、できている。

それでも、町には、針の時計が、たくさんある。

役場の塔にも。

神社の拝殿にも。

古い映画館の、玄関にも。

食堂の壁に。駅の柱に。銀行の窓口の上に。

そこを、通るたびに、わたしは、視線を、少しだけ、ずらす。

見ないために。

見ないで済むように、わたしは、別の目安を、作った。

朝の、日の光の、角度。

東の窓から、台所の床に、落ちる光の、長さ。

それが、ある場所に届くと、七時、とわかる。

製麺所の、茹で釜の、湯の音。

湯が、強く、沸く少し前に、釜の蓋が、かたかた鳴る。

その音が、十一時、と、わたしの体は、知っている。

町の、防災無線の、正午のチャイム。

山に、反響して、遅れて、もう一度、聞こえる。

二度目のチャイムが、わたしの、昼の、合図だ。

そういうものを、体で、覚えた。

その日、その季節の、光の傾きで、いま何時ごろか、見当をつける。

それから、手首のデジタルで、確かめる。

デジタルは、いつも、わたしと、同じ答えを、くれる。

それが、うれしくて、少し、悲しい。

順番が、逆になっていることを、誰も、知らない。

配達に、遅れたことは、一度もない。

わたしの体は、時間を、光と音で、読んでいる。

誰にも教わっていない、自分だけの、時計の読み方だ。

第三章 同僚が数えているもの

製麺所の、釜の前に、二十年勤めている、同僚がいる。

名前は、谷口さんという。

谷口さんは、その日に茹でた、麺の玉の数を、数えている。

「今日は、千二百二十玉」と、夕方に、教えてくれる。

わたしは、その日に届けた、軒数を、数えたことがない。

かわりに、わたしが覚えているのは、針の時計を、見なかった回数のほうだ。

壁の時計の前で、目を逸らした回数。

「いま何時?」と聞かれて、手首のデジタルを、見せた回数。

同じ製麺所の、同じ朝に、並ぶ二人が、まったく別のものを数えていた。

谷口さんの千二百二十は、工場のものだ。

わたしの数えている回数は、誰にも、言えない。

一度、谷口さんに、言われた。

「あんたは、いつも、デジタルだね」

わたしは、「見やすいので」と答えた。

谷口さんは、「確かにね」と笑った。

それだけだった。

第四章 昼の目安

去年の十月、いつもの食堂に、麺を届けた。

七十すぎの、店主が、厨房から、顔を出した。

「ご苦労さま」

わたしは、箱を、台に、置いた。

店主は、わたしの顔を、しばらく、見ていた。

「あんた、不思議な人だね」

わたしは、体が、固くなった。

「うちに来て、二十年になる。一度も、遅れたことがない」

「それに、あんたは、いつも、壁の時計を、見ない」

わたしは、息を、止めた。

店主は、続けた。

「見ないのに、時間ぴったりに来る。ずっと、不思議だったんだ」

店主は、笑った。

「でもね、うちの常連は、みんな、あんたの車の音を、聞くと、昼だと思う」

「あの音が聞こえたら、そろそろ、のれんを出そうかって、な」

「うちの時計よりも、あんたの車のほうが、正確だよ」

店主は、壁の、丸い時計を、見上げた。

「あの時計、五分、遅れてるんだ。十年、直してない」

それから、わたしを、見た。

「あんたが来る時間で、直してる」

わたしは、何も、言えなかった。

二十年、わたしが、隠すために、身につけた、光と音の時計が、この町の昼の目安に、なっていた。

第五章 減らない

その夜、わたしは、家に帰って、手首のデジタル時計を、外した。

壁の、丸い時計を、見た。

いつもは、見ない時計だ。

やはり、すぐには、読めなかった。

長い針と、短い針が、どこを指しているのか、頭の中で、ばらばらになった。

少し、軽くなると、思っていた。

誰も、わたしを、責めていなかった。

むしろ、頼りにされていた。

けれど、何も、変わらなかった。

一日、考えた。

夜になって、ようやく、わかった。

わたしが隠していたのは、食堂の店主の目からではない。

自分の目からだ。

針の時計が読めない、自分を、わたしが、いちばん、見ている。

でも、そうではなかった。

謝る相手はいない。恥は、減らない。

誰かに、迷惑をかけたのではない。

読めないまま、四十六年、生きてきたことで、傷ついた人も、いない。

責める誰かがいないから、許される場所もない。

読めないことよりも、読めないことを、三十九年、隠し続けたことのほうが、いまは、重い。

エピローグ

今朝も、わたしは、配達の車に、乗った。

食堂の前で、車をとめた。

箱を、台に、置く。

店主が、厨房から、顔を出した。

「ご苦労さま」

わたしは、壁の、丸い時計を、見た。

五分、遅れていると、聞いた時計だ。

長い針と、短い針を、ゆっくり、目で追った。

読めなかった。

けれど、目を、逸らさなかった。

三秒、見た。

店主は、何も言わずに、のれんを、出した。

わたしは、車に、戻った。

エンジンを、かけた。

手首の、デジタルを、見た。

十一時四十二分。ちょうど、よかった。

来週の朝も、わたしは、この壁の時計の前で、三秒、立ち止まる。

ソウルミッション358

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