6_膝の上の鞄
父が魚の行商だったことを恥じ、他人の家で鞄を膝から離さない眼鏡店の主人に、八百屋の老主人は、父の魚が毎朝、町の台所に届いていたと告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 魚の匂い
石川の、能登の町で、眼鏡店をやっている。
わたしは四十八になる。
父は、魚の行商だった。
朝の三時に、港で魚を仕入れる。
木の魚箱を、リヤカーに積む。
箱の中で、氷が、きしむ。
まだ、暗い港に、魚の銀色だけが、光る。
それを引いて、町の家々を、一軒ずつ回る。
背中に、いつも、魚の匂いがついていた。
塩と、氷と、潮の匂いだ。
父の手は、いつも、赤く、ふやけていた。
冬でも、素手で、魚を、さばいた。
指の関節は、いつも、赤く、腫れていた。
小学三年の夏、学校の授業参観に、父が来た。
仕事の帰りに、そのまま来たのだと思う。
教室の後ろに、立っていた。
長靴のまま、ゴムの前掛けのまま。
近くの席の子が、小さく、鼻をつまんだ。
それを見たのは、わたしだけだったかもしれない。
わたしは、その日、一度も、後ろを振り向かなかった。
黒板の、チョークの粉を、見つめていた。
耳だけが、教室の後ろに、向いていた。
父の、ゴム長靴が、きゅっと、鳴る音が、聞こえた。
父は、授業が終わる前に、静かに、出ていった。
帰ってきた父は、何も言わなかった。
夕食の、焼き魚が、いつもより、大きかった。
父は、自分の分を、小さな、尻尾の端だけにした。
「うまいか」と、一度だけ、聞いた。
わたしは、「うん」と答えた。
わたしは、それを、黙って食べた。
あの日から、わたしは、父の魚の匂いが、体に移っていないか、気にするようになった。
四十年が、たった。
父は、わたしが四十のときに、亡くなった。
第二章 離さない鞄
わたしは、他人の家に、上がると、鞄を、膝の上から、離さない。
ソファでも、座敷でも、必ず、そうする。
鞄の中に、財布と、手帳と、眼鏡の布が、入っている。
鞄を、足もとに置けば、楽なのに。
置けない。
鞄を、体から、離すと、体に残った匂いが、広がる気がするのだ。
鞄が、わたしと、部屋のあいだの、壁になる。
客商売をしているのに、わたしは、お客さんの家には、あまり行かない。
それを、奇妙に思う人も、いるだろう。
けれど、店に来てもらうほうが、わたしには、安全だ。
自分の場所なら、匂いも、鞄も、気にならない。
眼鏡の調整は、店に来てもらう。
お客さんの顔の、形を、見る。
鼻の高さ、耳の位置、両方の目の、あいだ。
一人として、同じ顔は、ない。
それを、一つずつ、合わせていく仕事は、好きだ。
どうしても行くときは、玄関先で、済ませる。
上がらなければならないときは、靴を、揃えて、脱ぐ。
靴下の、かかとを、確かめる。
それから、鞄を、膝に、のせる。
妻には、「いつも鞄、離さないね」と、言われる。
妻は、笑いながら、言う。
責める調子では、ない。
わたしは、その笑い声に、助けられている。
わたしは、「癖でね」と答える。
もう、二十年、同じ会話をしている。
わたしの鞄は、革が、擦れて、角が白くなっている。
その白いところを、わたしは、毎晩、指でなぞる。
第三章 隣の店が数えているもの
眼鏡店の隣は、時計屋だ。
そこの主人は、その日に修理した時計の数を、数えている。
「今日は、七つ」と、閉店のときに、教えてくれる。
わたしは、その日に売った眼鏡の数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、鞄を離せなかった回数のほうだ。
上がった家の数。膝の上の鞄の重さ。
同じ通りに、同じ向きで、店を構える二人が、まったく別のものを数えていた。
時計屋さんの七つは、商売のものだ。
わたしの数えている回数は、誰にも、言えない。
一度、時計屋さんに、言われた。
「あんたは、いつも、きれいな匂いがするね」
わたしは、息を止めて、「そうですか」と答えた。
時計屋さんは、笑った。
その人は、いつも、笑って、褒めてくれる。
悪気が、ないのは、わかっている。
「眼鏡屋さんは、清潔感があって、いい」
わたしは、その言葉を、素直に、受け取れなかった。
きれいな匂いは、わたしが、四十年かけて、作ったものだ。
第四章 朝の台所
去年の八月、商店街の、八百屋の主人が、わたしを、呼び止めた。
八十を過ぎた、背の低い人だ。
店の前で、野菜を、並べていた。
「あんた、魚屋の、息子さんだね」
わたしは、体が、固まった。
「魚屋じゃなくて、行商です」
わたしは、そう答えた。
「そうだ、行商だ。あんたの親父さんの、魚はな」
主人は、手を止めて、言った。
「毎朝、町の、台所に、届いてた」
わたしは、意味が、よくわからなかった。
「うちも、そうだった。あの家も、あの家も」
主人は、通りの、家々を、指差した。
「毎朝、五時前に、リヤカーの音がして、玄関に、新しい魚が、置かれていた。誰の家の鍋にも、あんたの親父さんの魚が、入ってたんだ」
「雪の日も、台風の日も、一日も休まなかった。町の人は、みんな、知ってるよ」
主人は、目を、細めた。
その目は、遠い朝を、見ているようだった。
主人は、続けた。
「あの魚の匂いは、この町の、朝の匂いだった」
わたしは、通りの、家々を、見渡した。
父のリヤカーの音は、わたしが、布団の中で、聞いていた音だった。
あの音が、町の人たちの、台所を、起こしていた。
わたしは、それを、恥じていた。
第五章 減らない
その夜、わたしは、店を閉めたあと、鞄を、膝から、机の上に、置いてみた。
三十秒、置いた。
それから、また、膝に、のせた。
わたしは、少し、楽になると、思っていた。
父の魚は、町の朝を、つくっていた。
わたしが恥じていたものは、町の人にとっては、誇りに近かった。
それなのに、膝の上の鞄は、手放せなかった。
わたしは、考えた。
わたしが隠していたのは、魚の匂いではなかった。
父の匂いを、嫌だと思った、八歳の自分のほうだ。
でも、そうではなかった。
謝る相手がいないまま、恥は、少しも、減らなかった。
父は、あの日、わたしの背中を、見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
責められれば、言い返せた。
父は、言い返す余地を、くれなかった。
父が生きているあいだは、いつか、何か、言えると思っていた。
父が亡くなって、その可能性が、なくなった。
八百屋の話を聞いても、八歳のわたしが、教室で、後ろを振り向かなかった事実は、消えない。
エピローグ
今日、閉店のあと、わたしは、店の奥で、鞄の革の、白くなった角を、見ていた。
父の使っていた、木の魚箱が、店の隅に、置いてある。
捨てられずに、持ってきたものだ。
蓋を、開けた。
乾いた、木の匂いがした。
魚の匂いは、もう、しなかった。
わたしは、その魚箱を、そっと、持ち上げた。
軽かった。
それを、店の、ショーウィンドウの、端に、置いた。
夕方の光が、魚箱の木目に、当たった。
手の跡のような、黒い染みが、浮かんだ。
父の手が、握っていた場所だ。
いままで、一度も、人目に触れさせなかったものだ。
明日の朝、お客さんが、来る。
鞄は、まだ、膝の上に、ある。
それでも、魚箱は、ショーウィンドウの端に、置いたままにしておく。
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