5_煮込みの匂い
母が夜の屋台のおでん屋だったことを恥じ、五十年、毎朝スーツの袖の匂いを確かめてきた水道局員に、屋台の元常連は、母は毎晩、息子の賞状を客に見せていたと告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 匂いのする子
福岡の、市の水道局で、三十七年、働いている。
わたしは六十一になる。
子どものころ、母は、夜の屋台で、おでんを売っていた。
川沿いの、橋のたもとに、小さな屋台を出していた。
橋の下を、黒い水が、ゆっくり、流れていた。
夜になると、川面に、橋の明かりが、揺れた。
仕事帰りの人が、一人、二人、屋台の暖簾の前で、足を止める。
夕方に、リヤカーで、屋台を引いていく。
わたしは、小さいころ、その後ろを、押した。
車輪が、石畳で、がたがた鳴った。
夜の十二時すぎに、戻ってくる。
わたしは、その屋台の、大きな寸胴鍋の、匂いの中で、育った。
昆布と、大根と、醤油の、甘い匂い。
湯気の向こうに、母の、白い割烹着が、浮かんでいた。
母は、わたしを見つけると、卵を、一つ、小皿に、取ってくれた。
好きな匂いだった。
湯気を、胸いっぱいに、吸い込むと、安心した。
母の手は、いつも、ほんのり、醤油の色に、染まっていた。
ある日までは。
小学校の、五年生の、冬だった。
教室で、隣の席の女の子が、わたしの袖に、鼻を近づけた。
「なんか、おでんの匂いがする」
笑いながら、言った。
悪気は、なかったのだと思う。
けれど、教室の何人かが、わたしを、見た。
その日の帰り、わたしは、道端で、制服の袖を、自分の鼻に、押し当てた。
鼻の奥に、あの匂いが、残っていた。
わたしは、それから、毎朝、学校に行く前に、服の匂いを、嗅ぐようになった。
五十年、続いている。
母は、わたしが五十五のときに、亡くなった。
わたしは、いまでも、朝、玄関を出る前に、スーツの袖を、鼻に近づける。
第二章 袖の匂い
水道局の仕事は、地味だ。
配管の図面を、見る。
漏水の連絡を、受ける。
現場に、出る。
長いあいだ、わたしは、決まった時間に、決まった手順で、動いてきた。
朝は、六時に起きる。
窓の外は、まだ、薄暗い。
隣の家の、犬が、吠えている。
その声を、聞きながら、顔を洗う。
洗濯したスーツを、着る。
袖に、鼻を近づける。
洗剤の匂いだけが、することを、確かめる。
柔軟剤は、使わない。
花の匂いをまとうことも、怖かった。
それが、別の匂いに、思えるからだ。
確かめてから、家を出る。
夜、帰ってきて、スーツを脱ぐと、ほっとする。
脱いだスーツを、ハンガーにかけて、また、袖を嗅ぐ。
匂いは、どこにも、残っていない。
それでも、嗅ぐ。
妻には、気づかれていると思う。
三十年、一緒にいる。
妻は、わたしの服を、いつも、少し多めの洗剤で、洗ってくれる。
理由を、聞かれたことは、一度もない。
一度だけ、家に、客を招いたことがある。
十五年前、同僚を、招いた。
台所から、味噌汁の匂いが、した。
わたしは、その匂いが、同僚の服に移らないか、一晩中、気になった。
同僚は、「いい匂いですね」と言った。
わたしは、「そうですか」と答えた。
それ以来、客は、招いていない。
年末の、挨拶回りも、できるだけ、玄関先で、済ませる。
手土産を、渡して、すぐに、帰る。
第三章 後輩が数えているもの
職場に、三十代の後輩がいる。
名前は、島田という。
島田さんは、年に何本、漏水を見つけたかを、数えている。
「今年は、八本です」と、年末に、教えてくれる。
わたしは、見つけた本数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、袖を嗅いだ回数のほうだ。
一日に、二回。三十七年で、およそ、二万回。
数えたことはないが、それくらいだと思う。
同じ職場で、同じ時間に、同じ靴を履く二人が、まったく別のものを数えていた。
島田さんの八本は、局のものだ。
わたしの数えている回数は、誰にも言えない。
一度、島田さんに、言われた。
「係長、いつも、袖、気にしてますよね」
わたしは、「癖でね」と答えた。
島田さんは、「そうなんですか」と笑った。
それだけだった。
第四章 屋台の客
去年の三月、母の七回忌の帰りに、橋のたもとを、通った。
あの屋台のあった場所だ。
いまは、駐車場に、なっている。
その駐車場の、端に、ベンチがあった。
八十近い、老人が、座っていた。
わたしの顔を、見て、立ち上がった。
「あんた、おでんのおばちゃんの、息子さんだろう」
わたしは、息が、止まった。
「その顔、そっくりだ」
老人は、笑った。
歯が、何本か、抜けていた。
けれど、笑う顔は、少年のようだった。
「わしは、あの屋台の、常連だった。タクシーの運転手でね。三十年、毎晩、食べに行った」
わたしは、頭を下げた。
老人は、続けた。
「おばちゃんは、毎晩、息子の話ばっかりしてたよ」
わたしは、聞き返した。
「うちの息子が、学校で賞を取った。作文で、賞を取った。ほら、見て、と言って、懐から、賞状を出してな」
「毎晩だよ。あんたが、小学生のころから、最後まで」
わたしは、立っていられなかった。
橋の欄干に、手を、ついた。
川の水の音が、遠くで、聞こえていた。
作文の賞を取ったのは、五年生のときだ。
母に見せたとき、母は、「そう」と言っただけだった。
あのとき、母は、屋台で、客に、見せていた。
「あんたの話が出ると、屋台が、にぎやかになってね。みんな、おばちゃんの、自慢の息子だって、知ってた」
わたしは、母の匂いを、恥じていた。
母は、わたしを、屋台の客に、自慢していた。
第五章 減らない
その夜、風呂上がりに、洗いたての服を、鼻に当てた。
屋台の匂いは、しなかった。
母は、屋台の客に、わたしの賞状を、見せていた。
それを知ったのだから、もう、袖を嗅ぐ必要は、ないのかもしれない。
翌朝も、わたしは、玄関を出る前に、袖を、嗅いだ。
洗剤の匂いを、確かめて、ようやく、靴を履いた。
何も、変わらなかった。
一日、考えた。
そして、わかった。
わたしが隠していたのは、母の匂いではなかった。
母の匂いを、友達の前で、いやがった、十一歳のわたしだ。
でも、そうではなかった。
謝る相手はもういない。だから、恥は、減らなかった。
母は、わたしに、屋台の話を、一度も、責めるように、しなかった。
責められないものは、許されもしない。
母が生きているあいだ、いつか、「あのころは、ごめん」と言える日が来ると、思っていた。
その日は、来なかった。
元の運転手の話を聞いても、袖に鼻を押し当てた、五年生の冬は、消えない。
エピローグ
今朝、玄関を出る前に、わたしは、スーツの袖を、鼻に近づけた。
洗剤の匂いだった。
それから、台所に、行った。
妻が、味噌汁を、作っていた。
わたしは、鍋の前に、立った。
鍋から、湯気が、上がっていた。
鼻を近づけて、匂いを、嗅いだ。
昆布と、味噌の、甘い匂いだった。
それは、母の屋台の匂いと、よく似ていた。
鼻の奥が、つんとした。
目の前の湯気が、かすんだ。
妻が、振り向いた。
「どうしたの」
「いい匂いだな」
わたしは、そう言った。
三十年ぶりに、そう言った。
妻は、少し驚いて、笑った。
来週の朝も、わたしは、台所の鍋の前に、立つ。
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