4_三軒手前
葬儀屋の子だったことを恥じ、四十年、家の三軒手前に車をとめてきた電器店の主人に、老婆は、父が息子の足もとを自分の手袋で包んだと告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 家の前で降りた
宮城の、仙台の外れで、小さな電器店をやっている。
わたしは五十五になる。
電器店は、父の葬儀屋から、歩いて五分の、場所にある。
偶然ではない。
近すぎず、遠すぎない場所を、わたしは、選んだ。
子どものころ、父は、葬儀屋だった。
町に一軒だけの、小さな葬儀屋だ。
看板は、なかった。
板の戸に、墨で、小さく、屋号が書いてあっただけだ。
夜中に、電話が鳴ると、父は、黙って、起き上がった。
母は、湯のみに、お茶を、入れて、待っていた。
家の前には、黒い車が、いつも、とまっていた。
長い、黒い車だった。
いつも、ぴかぴかに、磨かれていた。
父は、日曜の朝に、バケツと布を持って、一時間、車を拭いた。
わたしは、窓から、それを、見ていた。
霊柩車、と呼ぶ人もいた。
小学校の友達は、それを見ると、少しだけ、黙った。
誰かが、わざとらしく、親指を隠した。
それが、ふざけなのか、礼儀なのか、子どものわたしには、わからなかった。
どちらにしても、わたしの胸の中で、小さな石が、一つ、増えた。
ただ、あの黒い車が、家の前にとまっているのが、いやだった。
小学五年の冬、友達と帰る途中、わたしは、家の三軒手前で、足を止めた。
「ここでいい」と言った。
友達は、「家まで行くよ」と言った。
わたしは、首を振った。
「ここでいい」
友達は、何も聞かずに、帰っていった。
それから、わたしは、中学、高校まで、友達を、家の三軒手前までしか、連れてこなかった。
もう、四十年以上前の話だ。
父は、わたしが五十のときに、亡くなった。
父の葬式は、父が、自分の店で、出した。
喪主は、わたしだった。
わたしは、父の棺の前で、立っていた。
黒い車が、玄関に、着いた。
三軒手前ではなく、家の、真ん前に。
あのとき、わたしは、初めて、黒い車の、扉に、手を触れた。
冷たい、磨かれた、金属だった。
黒い車が、父を、乗せた。
第二章 三軒の距離
わたしは、いまでも、車を、家の三軒手前に、とめる。
電器店の、お客さんの家にも、そうする。
家の前にとめれば、早いのに。
三軒手前にとめて、荷物を、歩いて運ぶ。
雨の日は、傘をさして、冷蔵庫を、台車に載せる。
お客さんは、「大変ですね」と、言ってくれる。
わたしは、「いえ」と、笑う。
洗濯機も、冷蔵庫も、そうしている。
お客さんには、「道が狭くて」と言う。
それは、嘘ではない。
けれど、本当の理由でもない。
三軒手前に、車をとめると、体が、楽になる。
家の前に、黒い車がないことを、目で確かめる前に、心が、落ち着く。
四十年、同じことをしている。
自分の家の前にも、いまでは、何もとまっていない。
それでも、わたしは、家の三軒手前で、エンジンを切る。
妻は、何も言わない。
夕飯のあと、妻は、食器を洗いながら、小さく、鼻歌を歌う。
わたしは、その背中を、見ながら、お茶を、飲む。
三十年、一緒にいる。
「あなた、いつも遠くにとめるのね」と、一度だけ、言われた。
「歩くのが、好きだから」と、わたしは答えた。
妻は、笑った。
第三章 取引先が数えているもの
電器店の、仕入れ先の、営業の人がいる。
三十代の、若い男だ。
彼は、毎月、訪問した、お客さんの数を、数えている。
「今月は、百四十二軒、回りました」と、教えてくれる。
わたしは、回った軒数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、玄関前に、車をとめられなかった回数のほうだ。
同じ町を、同じ通りで、走る二人が、まったく別のものを数えていた。
営業の人の百四十二は、会社のものだ。
わたしの数えている回数は、誰にも、言えない。
一度、営業の人に、言われた。
「社長、いつも、遠くにとめますよね」
わたしは、「歩くの、好きでね」と、また言った。
営業の人は、「健康的ですね」と笑った。
それだけだった。
第四章 あの人の息子
去年の十一月、店に、老婆が来た。
八十すぎの、小柄な人だった。
ストーブの修理を、頼みに来たのだという。
わたしは、見積もりのために、その人の家に、うかがった。
帰り際、玄関先で、老婆が、わたしの顔を、じっと見た。
「あんた、戸田さんの、息子さんだね」
わたしは、息が、止まった。
戸田は、父の名前だった。
「うちの息子を、運んでくれたのは、あんたのお父さんだ」
老婆は、ゆっくりと、言った。
「十七年前だよ。交通事故でね」
わたしは、何も言えなかった。
老婆は、続けた。
「あのとき、お父さんは、一晩中、棺の脇に、座っていてくれた。朝になって、車に乗せるとき、うちの息子の足もとを、自分の手袋で、そっと、包んだんだ」
わたしは、父の、黒い革の手袋を、思い出した。
家の玄関に、いつも、かけてあった。
「あんなに、丁寧に、運ぶ人は、いなかった」
老婆は、手を合わせた。
その手は、細くて、皺だらけだった。
けれど、合わせた指先は、まっすぐだった。
「いまでも、あの手袋の手を、思い出す。お礼を、言いたかったけれど、お父さん、先に逝っちゃったから」
わたしは、頭を、深く、下げた。
あの黒い車に、誰かの、大切な人が、乗っていた。
わたしは、それを、見ようとしなかった。
第五章 減らない
その夜、わたしは、父の手袋を、押し入れから、出した。
黒い革は、固くなっていた。
油の匂いが、ほんの少し、残っていた。
指の形に、革が、少し、曲がっていた。
少し、軽くなると、思った。
父の仕事は、誰かに、感謝されていた。
それなのに、わたしは、四十年、父の仕事を、恥じていた。
翌朝、わたしは、いつものように、店の車に、乗った。
お客さんの家の、三軒手前に、とめた。
何も、変わらなかった。
その日は、一日、考えた。
夜になって、ようやく、わかった。
わたしが恥じていたのは、父の仕事ではなかった。
父の仕事を恥じた、わたしのほうだ。
でも、そうではなかった。
謝る相手が、もう、いない。恥は、減らない。
父は、わたしを、一度も、責めなかった。
責められなければ、許されることもない。
父が生きていたあいだ、いつか何か言える、と、どこかで、思っていた。
言わないまま、父は、いなくなった。
老婆の話を聞いても、その順番は、変わらなかった。
わたしは、父を恥じた子どもだった。その事実だけが、そのまま、残っている。
エピローグ
今日、わたしは、あの老婆の家に、ストーブの修理に、行った。
車を、家の前に、とめた。
とめて、エンジンを切った。
三軒手前よりも、ずっと近い。
それだけで、胸が、少し、きしんだ。
老婆の家の庭には、山茶花が、咲いていた。
赤い花びらが、一枚、車のボンネットに、落ちていた。
老婆が、玄関から、顔を出した。
「ご苦労さま」と言った。
わたしは、頭を下げて、荷物を、降ろした。
修理は、三十分で、終わった。
帰りの車の中で、わたしは、助手席に、父の手袋を、置いていることに、気づいた。
押し入れから、持ってきたのを、すっかり、忘れていた。
来週も、わたしは、お客さんの家の前に、車をとめてみる。
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