3_白い手袋
手のひらの汗を隠して十年、白い綿の手袋で接客してきた書店員に、常連の老人は、手袋の人が渡す本は角が一度も折れていないと言った。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 濡れる手
愛媛の松山の、駅前の書店で、働いている。
路面電車の、走る音が、店の中まで、聞こえてくる。
古い書店だ。木の棚が、天井まで、積み上がっている。
紙と、インクと、埃の匂いが、いつも、混ざっている。
わたしは三十八になる。
手のひらに、汗をかく。
緊張しなくても、かく。
眠っているあいだにも、かく。
医者は、体質ですね、と言った。
人よりも、ずっと多く。
小学校の遠足のとき、友達と手をつないだ。
友達は、すぐに、手を離した。
「濡れてる」と、小さな声で、言った。
それだけだった。
責められたわけではない。
けれど、あの日から、わたしは、人と手をつなげなくなった。
高校のときは、ノートの紙が、わたしの手のひらの下で、波打った。
消しゴムを、強くかけると、紙が、破れた。
わたしは、ノートの下に、ハンカチを敷いて、字を書いた。
それが、わたしの、高校の三年間だった。
テストの答案は、いつも、少しだけ、しわになっていた。
大人になってからも、握手は、避けた。
名刺の交換は、指先だけで、受け取った。
「手が冷たいですね」と言われて、「冷え性で」と、ごまかしたことがある。
本当は、冷たいのではない。
濡れているのだ。
夏は、とくに、つらい。
手袋の中で、指が、ふやけて、しわしわになる。
夜、手袋を外すと、指先が、白く、ぶよぶよしている。
七月の松山は、湿っている。
梅雨明けの空は、白く、まぶしい。
蝉の声が、書店の、開けた入り口から、流れ込む。
手のひらが、じっとりと、濡れる。
書店の仕事は、紙を扱う。
紙は、濡れると、波打つ。
濡れた手で渡した本は、そのまま、お客さんの手に、湿りを移す。
それが、わたしには、どうしても、許せなかった。
十年前、わたしは、白い綿の手袋を、買った。
第二章 白い手袋
手袋をして、接客をする書店員は、少ない。
お客さんは、気づいても、口には、しない。
わたしは、それに、甘えている。
最初は、店長に、聞かれた。
新しく赴任してきた、店長だった。
「その手袋は?」
わたしは、「本を傷めないためです」と答えた。
店長は、「そうなんだ」と言った。
それ以上は、聞かれなかった。
わたしは、その日の夜、胸を、なでおろした。
それ以来、わたしは、毎日、白い手袋をはめて、レジに立っている。
手袋の下の手のひらは、いつも、湿っている。
手袋が、汗を吸って、少しずつ、重くなる。
夕方には、水を含んだ布のように、手首に、まとわりつく。
一日に、三回、替える。
昼休みに、一組。
三時に、もう一組。
閉店の前に、最後の一組。
替えの手袋を、エプロンのポケットに、五組、入れている。
洗濯は、夜に、自分で、する。
洗剤は、無香料のものを、選んでいる。
本に、匂いを、移したくないからだ。
洗った手袋は、窓際に、一組ずつ、吊るして、干す。
洗濯ばさみで、指の先を、はさんで、吊るす。
風が吹くと、手袋が、揺れる。
揺れる手袋は、誰かが、手を振っているように、見える。
朝には、乾いている。
わたしの部屋の窓には、いつも、白い手袋が、並んでいる。
十年で、ざっと、千五百組。
数えたことはないが、それくらいは、使ったと思う。
夏には、手袋の中で、汗が、手首まで、流れる。
それでも、外さない。
手袋を外した自分の手は、誰にも、見せたくない。
夜の部屋で、一人のときにだけ、外す。
外した手のひらは、白く、ふやけている。
第三章 同僚が数えているもの
同じ書店の、レジの隣に、二十代の同僚がいる。
名前は、坂本という。
坂本さんは、お客さんに薦めた本の、冊数を数えている。
「今週は、十二冊、薦めました」と、毎週、教えてくれる。
わたしは、薦めた冊数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、断った回数のほうだ。
お客さんが、「本を手に取らせてほしい」と、言ったときに、手袋を見せて、うなずいた回数。
お礼に、握手を求められて、お辞儀だけで、済ませた回数。
同じレジの、同じ並びに、立つ二人が、まったく別のものを数えていた。
坂本さんの十二は、店のものだ。
わたしの数えている回数は、誰にも、言えない。
一度、坂本さんに、聞かれた。
「その手袋、暑くないですか」
わたしは、「慣れました」と答えた。
坂本さんは、「へえ」と言った。
それ以上は、聞かれなかった。
第四章 角
去年の七月、常連のお客さんが、レジに来た。
八十近い、白髪の、おじいさんだ。
毎週、土曜日に、文庫本を、一冊、買っていく。
その日、おじいさんは、本を受け取ったあと、立ち止まった。
「あんた、いつも、手袋してるね」
わたしは、心臓が、止まりそうになった。
「はい」と、小さく答えた。
おじいさんは、笑った。
「あんたが渡してくれる本は、角が、一度も、折れてないんだよ」
わたしは、聞き返した。
「え」
「ほかの店で買うと、角が、ちょっと折れてる。袋に入れるとき、雑に扱われるから」
おじいさんは、続けた。
「ここで買う本は、いつも、新品のまま、家に届く。あの手袋の人が渡すからだって、思ってた」
それから、言った。
「手袋のことは、知らんよ。理由なんか、聞かん。ただ、わしは、あんたの渡す本が、好きなんだ」
わたしは、頭を下げた。
声が、出なかった。
十年、わたしが、隠すために、はめてきた手袋が、お客さんの本を、守っていた。
誰かに、それを、褒められたのは、初めてだった。
第五章 減らない
その夜、わたしは、窓際の手袋を、眺めていた。
白い手袋が、夜風に、ゆっくり、揺れていた。
部屋の電気を、消した。
月の光で、手袋の白さだけが、浮かんで見えた。
少し、軽くなるかと、思った。
手袋のことを、責める人は、いなかった。
むしろ、役に立っていた。
翌朝、わたしは、いつものように、手袋をはめた。
手のひらが、じっとりと、濡れていた。
何も、変わらなかった。
その日は、一日、考えた。
夜になって、ようやく、わかった。
わたしが隠しているのは、お客さんの目からではない。
自分の目からだ。
濡れた手のひらを、わたしが、いちばん、見ている。
でも、そうではなかった。
謝る相手がいないから、恥は、減らない。
汗をかく体質は、誰のせいでもない。
友達の手を濡らした、小学生のあの日も、悪いことをしたわけではない。
責められなかったから、許される場所もない。
濡れた手のひらよりも、十年、手袋で隠し続けてきた自分のほうが、いまは、恥ずかしい。
エピローグ
今朝も、わたしは、白い手袋を、はめた。
窓際には、昨日の夜に洗った、三組が、乾いていた。
出勤前に、手袋を外して、自分の手のひらを、じっと見た。
濡れていた。
十秒、見た。
それから、タオルで、拭いた。
店に着いて、レジに立つ。
開店と同時に、あのおじいさんが、来た。
文庫本を、一冊、持っている。
わたしは、手袋の手で、それを受け取った。
角を、揃えて、袋に入れた。
おじいさんは、何も言わずに、本を受け取って、帰っていった。
来週の土曜日も、わたしは、この手袋で、本を渡す。
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