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2_足音で、天気

右の脚が短く、四十三年、立たずに帳場に座り続けた乾物屋の店番に、配達の若者は、足音で今日の天気がわかると母が言うと告げた。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

2_足音で、天気

朗読で聴く

第一章 引く脚

三重の、志摩の港町で、乾物屋の店番をしている。

海が近いので、店の中には、いつも、潮と出汁の匂いが、混ざっている。

朝は、漁に出る船の、エンジンの音が、聞こえる。

夕方は、戻ってくる船の、鳴らす汽笛が、聞こえる。

わたしは六十三になる。

右の脚を、引いて歩く。

生まれたときから、右のほうが、二センチ短い。

医者は、手術をすれば、少しは、ましになると、言ったらしい。

母は、「うちは、そんなお金がない」と、断った。

わたしは、そのことを、大人になってから、聞いた。

子どものころは、からかわれた。

大人になってからは、誰も、何も言わなくなった。

言わないことが、かえって、重かった。

乾物屋は、母の店だった。

母は、八十まで、この帳場に、座っていた。

母は、わたしの脚のことを、一度も、口にしなかった。

それが、やさしさだったのか、遠慮だったのか、わたしには、わからない。

わたしは、二十のときから、帳場に座っている。

店の奥の、帳場の、丸椅子に。

お客さんが来ても、立たない。

座ったまま、「いらっしゃい」と言う。

商品は、棚の低いところに、出しておく。

高いところのものは、お客さんが、自分で取れるように、してある。

わたしが、立って歩く姿を、見せないで済むように。

四十三年、そうしてきた。

母が亡くなってからも、わたしは、同じ場所に、座っている。

母の座っていた、座布団は、もう、すり切れた。

干しシイタケの箱、昆布の束、煮干しの袋。

瓶に入った、ひじきと、切り干し大根。

鰹節の、削りたての、香り。

どれも、わたしが、座ったままで、手の届く場所に、並んでいる。

店は、いつのまにか、わたしの座る場所を中心に、並び替わっていた。

第二章 丸椅子

わたしの体は、丸椅子の形に、できている。

背骨の、いちばん下が、椅子の、丸い縁の形に、凹んでいる。

整体の先生に、そう言われたことがある。

理由は、聞かれなかった。

腰が、少しだけ、右に傾いている。

背中が、帳場の柱に、もたれるように、曲がっている。

立ち上がるときは、まず、左脚に体重をのせる。

それから、右脚を、そっと、引き寄せる。

その二つの動きを、わたしは、お客さんがいないときにだけ、する。

お客さんがいるあいだは、立たない。

立たないために、トイレの回数を、減らした。

お茶も、午前中は、飲まない。

店の戸が、ガラガラと開く音がすると、わたしの背中が、勝手に、ぴんと伸びる。

戸の音は、母の代から、変わっていない。

重い木の戸が、レールを、きしませる。

すぐに、座り直す。

立っている姿を、見られたくない。

見られても、誰も、何も言わない。

それは、わかっている。

わかっているから、よけいに、苦しい。

それは、わかっている。

わかっていても、体のほうが、先に、動く。

第三章 隣の人が数えているもの

店の隣は、魚屋だ。

そこの主人とは、五十年の付き合いになる。

わたしが店に座ったころ、あの人は、まだ、見習いだった。

そこの主人は、その日に捌いた魚の数を、数えている。

「今日は、鯵が百二十匹」と、夕方に、わたしの店先で、言う。

わたしは、一日に何人のお客さんが来たかを、数えたことがない。

かわりに、わたしが覚えているのは、立てなかった回数のほうだ。

お客さんが、高い棚に手を伸ばして、困っていた日。

小柄な、年配の、女のお客さんだった。

つま先立ちで、昆布を、取ろうとしていた。

わたしが、取りに行けなくて、黙っていた日。

聞かれれば、いくつでも、言える。

同じ通りに、同じ時間に、並んでいる二人が、まったく別のものを数えていた。

魚屋さんの百二十は、商売のものだ。

わたしの数えている回数は、誰のものでもない。

一度、魚屋さんに、言われた。

「あんたの店は、座って待っててくれるから、ゆっくり選べていい」

わたしは、「そう?」と笑った。

それは、本心だったと思う。

あの人は、悪気なく、褒めてくれた。

けれど、わたしには、「座って待つ人」という呼び名が、ずっと、痛かった。

第四章 足音

去年の九月、台風の前の日だった。

配達の若者が、店に来た。

干物の問屋の、二十代の若者だ。

荷物を、店の奥の、棚の下に、置いてくれた。

帰り際、彼は、わたしに言った。

「ばあちゃんの足音で、今日の天気が、わかるって、うちの母が言うんです」

わたしは、意味が、わからなかった。

「ばあちゃん、天気が悪い日は、足を引く音が、少し大きいでしょう。母は、この店の前を、毎日、通るんです。店の奥から、ずり、ずりって、音がすると、傘を持って出るって」

わたしは、息をのんだ。

足を引く音を、聞かれていた。

四十三年。

わたしが、立つ姿を、必死に隠していた間も、その音だけは、通りの人に、届いていた。

若者は、続けた。

「母は、その音が、安心するって言うんです。ああ、今日も、ばあちゃんは、いるなって」

責める調子は、どこにもなかった。

台風の前の、湿った風が、店の戸を、鳴らしていた。

若者は、軽く、頭を下げて、帰っていった。

隠していたはずのものが、通りの人たちの、毎日の、目安になっていた。

第五章 減らない

その夜、わたしは、店じまいのあと、一人で、帳場に座っていた。

外では、風が、強くなっていた。

戸の隙間から、潮の匂いが、入ってきた。

わたしは、帳場の電気を、消さずに、しばらく、座っていた。

少し、軽くなるかと思った。

足音を、聞かれていた。

それでも、誰も、わたしを、笑っていなかった。

翌朝、お客さんが来た。

やはり、わたしは、立たなかった。

何も、変わらなかった。

その日は、一日、考えた。

夜になって、ようやく、わかった。

わたしが隠していたのは、他人の目からではない。

自分の目からだ。

自分の脚を、いちばん、見ているのは、わたしだ。

でも、そうではなかった。

謝る相手はいない。恥は、減らない。

生まれつきの脚のことで、誰かに迷惑をかけたことはない。

立たなかった四十三年を、責める人も、一人もいない。

責められないから、言い返せない。

言い返せないから、恥は、そのまま、わたしの中に残る。

脚が短いことよりも、座り続けてきたことのほうが、いまは、重い。

エピローグ

今朝も、わたしは、六時に、店の戸を開けた。

戸の音が、いつもより、軽く、聞こえた。

昨日までの、台風の名残で、空が、洗われたように、青かった。

海から、湿った風が、入ってきた。

帳場の丸椅子に、座った。

そして、棚の、いちばん高い段に、手を伸ばした。

いつもは、お客さんのために、避けている段だ。

脚を、引きずりながら、立ち上がった。

ずり、ずり、と、自分の足音が、店の中に、響いた。

わたしは、昆布の束を、一つ、下ろした。

それだけで、息が上がった。

戸が、ガラガラと、開いた。

お客さんが、入ってきた。

わたしは、立ったまま、「いらっしゃい」と言った。

恥は、減らなかった。

それでも、その日の、昆布の束は、棚の低い段に、一つ、並んでいた。

ソウルミッション358

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