1_右から呼ばれると
十二のときから右の耳が聞こえず、三十五年、聞き返さずに笑ってきた給食調理員に、三年生の男の子は、右から呼ぶと返事が遅いから、左から呼ぶと言った。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

朗読で聴く
第一章 聞こえない側
山梨の小さな町の、小学校で、給食を作っている。
校舎の裏に、桃畑が、広がっている。
五月は、白い花が、終わって、小さな実が、膨らみはじめる季節だ。
朝の六時には、給食室の、明かりが、ともる。
わたしは四十七になる。
右の耳が、聞こえない。
生まれつきではない。
十二のとき、熱を出して、そのあと、静かになった。
四日間、起き上がれなかった。
五日目の朝、右の耳の中に、綿を詰められたような、静けさがあった。
母は、医者に、連れて行ってくれた。
医者は、もう、戻らないと、言った。
母は、帰り道、一度も、泣かなかった。
左の耳は、ふつうに聞こえる。
だから、日常で困ることは、少ない。
困るのは、右から話しかけられたときだ。
右から、声が来る。
言葉が、半分ほど、抜ける。
抜けた言葉を、わたしは、頭の中で、勝手に埋める。
聞き返せばいい。
それは、わかっている。
それは、わかっている。
けれど、聞き返せない。
聞き返すと、右の耳のことを、説明しなければならなくなる。
それが、いやだった。
三十五年、聞き返さずに、きた。
そのあいだに、わたしは、結婚して、子どもを二人、育てた。
子どもたちの、小さな声は、右から、よく、聞き逃した。
「ママ、聞いてる?」と、何度、言われただろう。
わたしは、そのたびに、「聞いてるよ」と、笑った。
うなずく。
笑う。
笑う。
「そうですね」と言う。
その三つで、たいていのことは、やり過ごせる。
四十七年生きて、いちばん上手になったのは、あの三つだと思う。
第二章 かしげる首
給食室は、うるさい。
大きな鍋が、煮える音。
ぐつぐつと、底から、泡が上がる。
八十人ぶんの、味噌汁の湯気が、天井まで、のぼる。
食器が、ぶつかる音。
換気扇が、回る音。
その中で、右から呼ばれても、聞こえない。
子どもたちの声は、もっと、高い。
高い声は、右の耳に、入ってこない。
入ってこない声を、わたしは、顔の動きで、読んでいる。
それでも、わたしは、振り向く。
首を、少し、左にかしげて、振り向く。
左の耳を、声の方に、向けるためだ。
この癖は、いつのまにか、体に染みこんだ。
家でも、そうなっている。
テレビを見るときは、いつも、左側に座る。
家族と、並んで見るときも、そうだ。
わたしが、いつも、同じ端に座ることを、家族は、癖だと思っている。
映画館では、いつも、右の端の席に座る。
暗い場所で、字幕を、追いながら、音は、左の耳で、拾う。
映画が終わって、明かりがつくまで、わたしは、席を立たない。
そうすれば、音が、左の耳に入るからだ。
わたしの席は、いつも、決まっている。
割烹着のポケットには、小さなメモを入れている。
小さな方眼の、メモ帳だ。
鉛筆は、短くなったものを、使い切るまで、手放さない。
聞き取れなかった言葉を、あとで、こっそり、書き留めるためだ。
夜に、思い出して、考える。
あの人は、何と言ったのだろう。
あの人の、口の形は、こうだった。
唇の動きを、頭の中で、もう一度、再生する。
答えは、たいてい、出ない。
メモの端は、いつも、折れて、柔らかくなっている。
洗濯のたびに、メモは、ちぎれる。
ちぎれたら、新しい紙に、書き写す。
そうやって、三十年、同じ言葉を、引き継いできた。
誰にも、見せたことがない。
第三章 栄養士が数えているもの
給食室の、栄養士の先生は、配膳した食数を、数えている。
「今日は、三百八十二食」と、毎朝、言う。
一人も欠かさず、温かいものを渡す、大切な数字だ。
わたしは、食数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、聞き返せなかった回数のほうだ。
同じ部屋で、同じ鍋を見ている二人が、まったく別のものを数えていた。
栄養士の先生の三百八十二は、学校のものだ。
わたしの数えている回数は、どこにも書けない。
一度、先生に、聞かれた。
「聞こえにくいこと、ありますか」
わたしは、「いえ、全然」と答えた。
笑って、うなずいた。
先生は、「そうですか」と言った。
それ以上は、聞かれなかった。
その日の昼休み、わたしは、給食室の、隅の椅子に、座って、お茶を飲んだ。
いつもより、お茶が、熱かった。
いまにして思えば、あの人は、わかっていたのだと思う。
わかっていて、聞かなかった。
第四章 左から
去年の五月、給食の配膳の時間だった。
三年生の男の子が、列の先頭に、立っていた。
わたしは、右側から、おかずを渡した。
男の子が、何か言った。
聞こえなかった。
わたしは、いつものように、うなずいて、笑った。
男の子は、それを、じっと見ていた。
それから、言った。
「おばちゃん、右から呼ぶと、返事が遅いね」
わたしは、息を止めた。
「だから、左から呼ぶよ」
男の子は、あっさり言った。
「左のほうが、早いから」
それだけ言って、トレイを持って、教室に戻っていった。
わたしは、鍋の前に、立ち尽くしていた。
三十五年のあいだ、誰にも言わずに、隠してきたこと。
九歳の子どもは、いつのまにか、気づいていた。
責める調子ではなかった。
ただ、当たり前のように、左側から呼ぶことに、決めていた。
あの子は、その日から、必ず、左から、わたしを呼ぶ。
第五章 減らない
その夜、わたしは、少し、軽くなると思った。
家に帰って、台所の流しの前に、立った。
蛇口から、水が、落ちる音が、左の耳だけに、届いた。
その音を、しばらく、聞いていた。
誰かが、気づいていた。
それなのに、誰も、わたしを、責めなかった。
隠さなくても、いいのかもしれない。
翌朝、給食室で、右から呼ばれた。
やはり、聞き返せなかった。
笑って、うなずいた。
何も、変わらなかった。
その日は、一日、考えた。
夜になって、ようやく、わかった。
わたしが隠しているのは、他人からではない。
自分から、だ。
聞こえない自分を、聞き返せない自分を、わたしが、いちばん見ている。
でも、そうではなかった。
謝る相手がいないから、恥は、減らない。
右の耳が聞こえなくなったのは、熱のせいだ。
誰かを傷つけたわけではない。
三十五年、聞き返さなかったことも、誰にも迷惑をかけていない。
それなのに、消えない。
聞こえないことより、聞こえないふりを続けてきたことのほうが、いまは、重い。
エピローグ
今月の給食室でも、右から、声がした。
調理員の仲間が、何か言った。
聞こえなかった。
わたしは、うなずきかけて、止まった。
それから、首を、右に、少しだけ、向けた。
「ごめん、もう一回」
小さな声が、出た。
右の耳が、聞こえないとは、言わなかった。
仲間は、「ああ、ごめんね」と言って、もう一度、話してくれた。
鍋の湯気が、窓に、白く、貼りついていた。
外では、桃の木が、風に、揺れていた。
小さな実が、いくつも、揺れていた。
三十五年ぶりに言った、その四文字が、胸の中で、まだ震えていた。
恥は、減らなかった。
割烹着のポケットのメモを、そっと、握った。
明日も、わたしは、この鍋の前に立つ。
あなたの魂のテーマに気づく場所