← あなたの魂のテーマを探す に戻る

0_手の甲が先に

前歯が欠けて二十七年、笑うたびに手の甲で口を隠してきた客室係に、新人は、歯は見えたことがないと言った。見られていたのは手の甲だった。謝る相手がいない。恥は減らない。誰も責めなかったことが、恥を残す。

0_手の甲が先に

朗読で聴く

第一章 欠けた歯

小樽の海のそばの、古いホテルで、客室係をしている。

石造りの、百年前の建物だ。

廊下の絨毯は、ところどころ、すり切れている。

冬になると、窓の外で、港の明かりが、雪にかすむ。

わたしは五十二になる。

前歯の一本が、欠けている。

二十五の冬のことだ。

坂道が凍っていた。

小樽の坂は、冬になると、ガラスのように、光る。

そのころのわたしは、まだ、走って、坂を下りる人だった。

朝の出勤の途中で、滑って、顔から落ちた。

歯の角が、斜めに、三ミリほど、なくなった。

痛みはすぐに引いた。

口の中に、鉄の味が、広がった。

舌で、歯の端を、なぞると、ざらざらしていた。

そのざらざらを、舌は、いまでも、覚えている。

歯医者に行けば、かぶせ物で、きれいに直る。

そう聞いていた。

行かなかった。

最初は、金がなかった。

次は、忙しかった。

そのうち、行かない理由が、行けない理由に変わった。

二十七年が、たった。

欠けたところは、笑うと、見える。

口を大きく開けなくても、見える。

だから、わたしは、笑うときに、手を上げる。

右の手の甲を、口の前に当てて、笑う。

誰かに、そうしなさいと言われたわけではない。

いつのまにか、そうなっていた。

手の甲が、笑うよりも、先に上がる。

第二章 上がる手

客室係の仕事は、ベッドを整えることだ。

朝の九時までに、前の晩の客の、痕跡を、消す。

髪の毛一本、残さない。

わたしは、その仕事が、嫌いではない。

誰かが眠った場所を、何もなかったように、整える。

それは、わたしが、自分に対して、したいことでもあった。

シーツを引いて、角を折って、枕を並べる。

シーツの端を、ぴんと、張る。

手のひらで、しわを、伸ばす。

その動きを、わたしは、毎日、二十回、繰り返す。

一日に、二十室。

笑う場面は、少ない。

それでも、宿泊のお客さんと廊下ですれ違えば、会釈をする。

会釈のあとに、少し笑う。

その瞬間に、手の甲が、口の前に上がる。

咳をしているように見えるだろう、と思っている。

わたしの右の手の甲は、いつも、かすかに乾いている。

二十七年のあいだに、口紅が移ったことは、一度もない。

口紅を、塗らなくなったからだ。

若いころは、赤い口紅が、好きだった。

二十五までは。

塗れば、口に目がいく。

目がいけば、歯が見える。

その順番を、わたしは、頭の中で、毎朝、確かめてから、家を出る。

写真は、撮られない。

ホテルの研修旅行でも、集合写真の端に、いる。

一度、幹事の人が、真ん中に、引っ張ってくれた。

わたしは、笑わずに、まっすぐ、カメラを見た。

写真の中のわたしは、怒っているように、見えた。

端にいて、手の甲を、口に当てている。

そのせいで、わたしだけ、手を挙げて写っている。

もう、そういう人だと、思われている。

それも、わかっている。

第三章 同僚が数えているもの

同じフロアに、二十年勤めている、森本さんという人がいる。

わたしと同い年だ。

森本さんは、その日に整えた、部屋の数を数えている。

「今日は二十一室」と、毎日、小声で言う。

それは、仕事を守るための、大切な数字だ。

わたしは、整えた部屋の数を、数えたことがない。

かわりに、わたしが覚えているのは、断った回数のほうだ。

集合写真を、断った回数。

歯医者の予約を、取って、取り消した回数。

お客さんに、「笑顔が素敵ですね」と言われて、うつむいた回数。

聞かれれば、全部、言える。

同じ廊下を、同じ時間に歩く二人が、まったく別のものを数えていた。

森本さんの二十一は、仕事のものだ。

わたしの覚えている数は、誰のものでもない。

一度、森本さんに、聞かれた。

「歯医者、行かないの」

わたしは、「忙しくて」と答えた。

森本さんは、「そう」と言って、それ以上は聞かなかった。

あの人は、気づいていたのだと思う。

気づいていて、聞かなかった。

あの日の帰り道、わたしは、坂の途中で、立ち止まった。

雪が、静かに、降っていた。

聞かれなくて、よかったと、思った。

聞かれなくて、さみしいとも、思った。

第四章 好きな手

去年の十一月、新人の子が入った。

二十二歳の、遥という子だ。

明るくて、よく笑う。

ある日の休憩室で、遥さんの冗談に、わたしも笑った。

そして、いつものように、手の甲が、口の前に上がった。

遥さんが、わたしの顔を、見た。

「主任が笑うと、こっちも、つられて笑っちゃうんです」

わたしは、驚いた。

「口を隠すところ、好きです」

遥さんは、あっさりと言った。

「なんか、嬉しいのを、ぎゅっと閉じ込める感じで」

わたしは、聞いてしまった。

「歯、見えたことある?」

遥さんは、首をかしげた。

「見えたこと、ないです」

それから、笑った。

「だって、主任、いつも隠してるじゃないですか」

わたしは、何も言えなかった。

二十七年のあいだに、わたしの歯を見た人は、たぶん、ほとんどいない。

見せなかったのだから、当たり前だ。

それなのに、わたしの手の甲だけは、全員が、見ていた。

隠すための手が、いちばん見られていた。

第五章 減らない

その夜、わたしは、少し、期待した。

ホテルの、夜の廊下は、静かだ。

従業員用の、狭い階段を、一人で、下りた。

手すりの冷たさが、手のひらに、残った。

これで、軽くなるかもしれない、と思った。

歯を誰も見ていなかったのなら、明日から、手を下ろせるかもしれない。

翌朝、洗面所の鏡の前で、笑ってみた。

手の甲が、勝手に、上がった。

何も変わらなかった。

わたしは、一日、考えた。

夜になって、ようやく、わかった。

わたしが隠していたのは、他人の目からではない。

自分の目からだ。

見られて困る、のではない。見えていることが、困る。

誰も見ていないと知っても、わたしは、毎朝、鏡の中の歯を見る。

歯を磨くたびに、舌で触る。

そこから逃げる方法は、ない。

でも、そうではなかった。

謝る相手はいない。恥は、減らなかった。

誰かに迷惑をかけたのではない。凍った坂で滑ったのは、誰のせいでもない。

歯医者に行かなかった二十七年についても、責める人は、一人もいない。

責められれば、言い返せる。

言い返せないから、恥は、そのまま、体の中に残る。

最初は、欠けた歯が恥ずかしかった。

いまは、二十七年、隠し続けた自分が恥ずかしい。

恥は、そうやって、自分を一つ、重ねていく。

エピローグ

今月も、わたしは、朝の六時に、ホテルの廊下を歩いた。

窓の外で、海が、灰色に光っていた。

休憩室で、遥さんが、また冗談を言った。

わたしは、笑った。

手の甲は、上がった。

ただ、上がるのが、ほんの一拍、遅かった。

その一拍のあいだに、歯は、見えたかもしれない。

遥さんは、何も言わなかった。

わたしは、ロッカーから、小さな手鏡を出した。

映してみた。

欠けたところは、思っていたより、小さかった。

手鏡を、ポケットにしまった。

窓の外の坂は、朝の光で、白く、光っていた。

二十七年前、わたしは、そこで、転んだ。

その坂を、今日も、歩いて、帰る。

来週の火曜日、わたしは、歯医者の予約の電話を、かけてみる。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所