7_袋の折り目
医者の道を捨てて薬局を継いだ叔母に、育てた姪は医者になった。姪の同僚の看護師が、姪は叔母の袋の折り方を真似て、夜明けの薬を折ると告げた。羨ましさは消えない。ただ、羨ましさを置く場所が一つできる。

朗読で聴く
第一章 継いだ側
福島の盆地の、小さな町で、薬局をやっている。
わたしは五十八になる。
父の代から続く、間口の狭い店だ。
二十二のとき、わたしは、医学部をやめた。
父が倒れて、店を継ぐ人が、ほかにいなかった。
姉は嫁いで、遠くにいた。
わたしが、白衣を着て、薬局の棚の前に立つことになった。
薬剤師の免許は、取った。
取ったけれど、医者になりたかった気持ちは、棚の奥に、しまった。
しまった、というのは、嘘だ。
棚の奥には、入りきらなかった。
三十八のとき、姉夫婦が、交通事故で、亡くなった。
残されたのは、十二歳の姪だった。
名前は、ななみという。
わたしは、独り身だった。
ななみを、引き取った。
誰に頼まれたわけでもなかった。
ほかに、引き取る人が、いなかった。
六月の、梅雨の入りの日に、ななみは、小さな旅行鞄一つで、薬局の二階に来た。
それから二十年、わたしが、育てた。
ななみは、勉強ができた。
高校を出て、医学部に入った。
わたしが、二十二で捨てた場所に、ななみは、自分の足で、歩いていった。
いまは、三十二で、福島市の大きな病院の、救急にいる。
夜勤が、多い。
わたしは、月に一度、その病院へ行く。
夜勤明けの朝に、坂の下で、十分間だけ、立つ。
それだけの付き合いを、いまも、続けている。
第二章 量る手
薬局の仕事は、量ることだ。
粉の薬を、天秤にのせて、十分の一グラムを、見極める。
乳鉢で、錠剤を、細かくする。
小さな袋に、薬を分けて入れて、端を、二度、折る。
三十六年、同じ手つきで、やってきた。
わたしの右の手首は、いつも、少しだけ、回る形に、固まっている。
乳鉢の中の杵を、回す形だ。
寝ている間も、手首が、動く。
夜明けごろ、目が覚めると、右手が、布団の上で、小さく、円を描いている。
誰もいない部屋で、わたしの手だけが、薬を砕いている。
薬局の仕事を、嫌いだと思ったことは、ない。
棚の薬の名前を、覚えるのは、楽しかった。
お客さんに、「ありがとう」と言われるのも、うれしかった。
けれど、白衣の下の体の、いちばん奥のほうに、まだ、あの二十二の春が、残っている。
大学の実習室の、消毒の匂い。
解剖台の前の、冷たい床。
その匂いを、わたしの体は、いまでも、覚えている。
乳鉢を回すたびに、少しだけ、よみがえる。
第三章 事務の人が数えているもの
薬局に、事務の人が、一人いる。
三十年勤めている、みっちゃんだ。
みっちゃんは、処方箋の枚数を、数えている。
「先月は、千二百三十枚でした」と、毎月、言う。
店の売り上げを、守る、大切な数字だ。
わたしは、その数字を、聞いて、うなずく。
けれど、わたしが覚えているのは、別のものだ。
ななみが、夜勤だった、日付。
二十年のあいだの、ななみの、熱を出した夜の数。
聞かれれば、いくつでも、出てくる。
同じ店の、同じカウンターに立つ二人が、まったく別のものを数えていた。
みっちゃんの千二百三十は、店のものだ。
わたしが覚えている夜の数は、誰にも言えない。
一度、みっちゃんに、言われた。
「先生は、ななみちゃんのことになると、手が、止まりますね」
わたしは、「そう?」と笑った。
みっちゃんは、それ以上、何も聞かなかった。
ななみは、わたしが、育てた子だ。
その子が、わたしがなれなかったものに、なった。
うれしい。
それは、間違いなく、うれしい。
同時に、胸の底のほうに、別のものが、沈む。
わたしは、それに、名前をつけずに、十四年、やってきた。
第四章 手の癖
ななみが、医者になると決めたとき、わたしは、「よかったね」と言った。
心から、言った。
その夜、台所で、洗い物をしながら、手が止まった。
羨ましい。
その一語が、胸に浮かんだとき、蛇口の水が、止まらないまま、流れていた。
育てた子を、羨む。
そんな気持ちを持つ人間は、人の数に入らないと思っていた。
学費も、食費も、制服も、わたしは、惜しんだことがない。
その惜しまなかったものの下に、羨ましさが、ずっと、敷いてあったのだとしたら。
わたしは、それを、ななみにも、誰にも、言わなかった。
「ななみのためだから」と、言い換えて、二十年、やってきた。
ななみのためなのは、本当だ。
けれど、そのためだけではないことも、わたしは、知っていた。
去年の六月、ななみの勤める病院の、看護師さんが、薬局に来た。
三十代の、小柄な人だった。
「ななみ先生の、叔母さまですよね」
わたしは、うなずいた。
その人は、少しためらってから、言った。
「先生、夜勤の明け方に、必ず、やることがあるんです」
わたしは、聞いた。
「何を」
「患者さんに渡す薬の袋を、自分で、折るんです」
その人は、手で、その動きを、見せた。
「端を、二度、折る。同じ幅で。指で、ぎゅっと押さえて」
「うちの薬局の袋は、折らなくていいのに、先生だけ、折るんです」
「どうしてですかって聞いたら、先生は、言いました。叔母の袋の折り方を、すると、落ち着くって」
わたしは、声が、出なかった。
ななみは、わたしが折る手を、いつも、横で見ていた。
十二のときから、二十年、わたしの、右手の動きを、覚えていた。
その手つきで、ななみは、いま、夜の救急の、明け方の薬を、折っている。
第五章 同じ折り目
その夜、わたしは、薬局の作業台に、一人で座った。
白い小さな袋を、一枚、取った。
端を、二度、折った。
羨ましさは、消えなかった。
これは、嘘をつかずに言う。
ななみが、わたしの折り方を覚えていたと知っても、わたしは、ななみが、羨ましい。
わたしが、二十二で、置いてきた場所に、あの子は、立っている。
それは、いまも変わらない。
ただ、わたしは、気づいた。
十四年前に、わたしは、この気持ちに、「ななみのためだから」という名前をつけた。
あの子の学費を払うとき、あの子の合格を喜ぶとき、わたしは、育ての親として、あの子の幸せを、願っているのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
羨ましいのは、あの子を、愛しているからだ。
わたしが育てた子を、わたしは、羨むほど、愛していた。
羨むことは、愛することの、別の呼び方だった。
羨ましさは、減らなかった。
減らなかったが、置き場所が一つできた。
夜明けの救急で、あの子が折っている、薬の袋の、二つの折り目だ。
エピローグ
今月も、ななみの夜勤明けの朝に、病院の坂を、のぼった。
坂の下で、缶コーヒーを二つ、持って、立った。
六月の、湿った朝の空気だった。
十分間、待った。
玄関から、ななみが出てきた。
白衣の上に、薄いカーディガンを羽織って、歩いてきた。
わたしに気づいて、片手を、上げた。
わたしは、缶コーヒーを、一つ、差し出した。
ななみは、それを受け取って、ポケットから、小さな袋を、一枚、取り出した。
端が、二度、折ってあった。
「叔母さん、これ」
それだけ言って、わたしの手に、のせた。
中は、空だった。
わたしは、その折り目を、指で、そっとなぞった。
わたしと同じ幅だった。
ななみは、「じゃあ、また」と言って、坂を下りていった。
わたしは、その袋を、白衣のポケットに、しまった。
来月の朝も、わたしは、この坂の下に、立つ。
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