6_夕方の畑の手前
色の見分けが難しく染め手になれなかった帳場の女に、呉服屋の主人は、帳場の言葉でしか伝わらない色があると告げた。染め手はその帳面で手を止めていた。羨ましさは消えない。ただ、羨ましさを置く場所が一つできる。

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第一章 見分けられない色
福岡の、筑後川のほとりで、染物の工房の帳場に座っている。
わたしは五十九になる。
工房では、藍で、絣の糸を染める。
甕の前に立つのは、染め手の人たちだ。
わたしの席は、土間の入り口の、小さな机の前だった。
生まれつき、色の見え方が、人と少し違う。
赤と茶色と、緑の暗いところが、わたしには、同じに見える。
子どものころ、図工の時間に、先生が言った。
「木の葉を、緑で塗りなさい」
わたしは、茶色で塗った。
クラスの子たちが、笑った。
それから、わたしは、色を使う授業が、嫌いになった。
そういう子どもが不幸だったかというと、そうでもない。
数字を数える仕事なら、色の見え方は、関係なかった。
わたしは、色を、自分から遠ざけて育った。
変わったのは、十九の秋だ。
近所の染物工房に、帳場の手伝いで入った。
土間の奥で、藍の甕から、糸の束が引き上げられた。
最初は、緑がかった、黄色い色をしている。
それが、空気に触れて、数分のうちに、青くなる。
わたしは、息をのんだ。
わたしにも、その変わっていく色は、見えた。
甕の前に立つ人たちの手が、青く染まっていた。
あの手になりたい、と思った。
工房の親方は、「色の注文は、お前が聞け」と言った。
「お前は、色の名前を言うのが、うまい」
それで、わたしは、帳場の人間になった。
第二章 糸を撫でる指
帳場の仕事は、単純だ。
注文の糸を受け取る。
何色に染めるか、何本か、いつまでに、を聞く。
それを、帳面に書く。
染め上がったら、もう一度、同じ頁を開いて、仕上がりを書き足す。
わたしは、色を、目だけでは、判断できない。
だから、いつも、言葉を使った。
「雨上がりの、瓦の色」
「夕方の畑の、手前の色」
「朝の川の、いちばん深いところ」
色の名前を、見える物に、置き換えて、書いた。
四十年で、帳面は、六十冊になった。
わたしの、右の人差し指と親指の腹は、いつも、少し、ざらついている。
糸を撫でて、太さと、湿りを、確かめるからだ。
目で見えない色の差を、わたしは、指で、覚えた。
染め上がった糸が、どれだけ、水を吸っているか。
どこの束が、濃くなりすぎているか。
若い染め手に、「当たってますね」と言われたことが、何度かある。
ふだん、この指は、何の役にも立たない。
買い物袋の持ち手を、つまんで、ミシンの糸を通す。
それだけのために、五十九年かけた手ではない、と思うことがある。
糸のないところでも、人差し指と親指は、勝手に、こすれ合う。
夜、布団の中でも。
あの、湿った糸の感触を、手だけが、覚えている。
第三章 見習いが数えているもの
いまの工房に、二十代の見習いがいる。
名前は、千夏という。
千夏さんは、甕に漬けた回数を、数えている。
「今日で、十一回目の染めです」と、聞いてもいないのに、言う。
一本の糸を、五回、十回と、浸けて、色を深くしていく。
その回数が、染め手の腕前になる。
わたしは、自分が書いた帳面の冊数を、数えたことがない。
かわりに、わたしが覚えているのは、別のものだ。
その糸が、染め上がった日の、空の色だ。
「あの青は、梅雨が明けた日だった」
「あの束は、初雪の朝だった」
聞かれれば、いくつでも、出てくる。
同じ工房の、同じ土間にいる二人が、まったく別のものを数えていた。
千夏さんの十一回は、千夏さんのものだ。
わたしが覚えている空の色は、誰のものでもない。
一度、千夏さんに、言われた。
「帳場の人は、よく、そんなに色を言葉にできますね。目が、いいんですね」
わたしは、「見えない分、言うだけ」と笑った。
それは、冗談として通った。
けれど、本当は、笑えない冗談だった。
第四章 あの手
わたしが書くのは、いつも、誰かの染めた色だ。
四十年、一度も、わたしが染めた糸が、帳面に載ったことはない。
羨ましい、と言った覚えが、一度もない。
口にしたら、自分が、薄くなる気がした。
色の見え方は、誰のせいでもない。
責める先が、どこにもない。
責める先のない気持ちは、飲みこむしかない。
だから、「藍が好きだから」と、言い換えて、四十年、やってきた。
藍が好きなのは、本当だ。
けれど、その好きの底には、あの手への、羨ましさが、沈んでいる。
好きと羨ましさは、一つの水だった。
分けて汲むことは、できなかった。
去年の十一月、くるめの呉服屋の主人が、工房に、挨拶に来た。
七十を過ぎた、背の曲がった男の人だった。
「あなたが、帳場の人か」
わたしは、頭を下げた。
主人は、茶を飲みながら、言った。
「うちの客は、あなたの言い方で、色を頼むんだ」
わたしは、聞き返した。
「夕方の畑の、手前の色。そう言わないと、通じない色があるんだよ」
「見本のふだには、藍の三番、と書いてある。けれど、お客さんは、そうは言わない。帳場の人の、あの言い方でないと、伝わらない」
主人は、続けた。
「若い染め手も、そうだ。糸を浸ける前に、必ず、あなたの帳面を、開く」
「色の名前を、そこで、覚える。どの深さで、手を止めるか、そこで決める」
わたしは、息が、止まった。
土間の奥で、千夏さんが、甕の前に立っていた。
その手元に、あの帳面の、一冊が、置いてあった。
開いたまま、水の飛ばない、棚の上に。
わたしが、見えない目で、言葉に置き換えてきた色が、染め手の手を、止めていた。
ほかの誰も、あの深さで、手を止める言葉を、持っていなかった。
第五章 同じ青
その夜、わたしは、帳面の一冊を、家に持ち帰った。
電灯の下で、頁をめくった。
羨ましさは、消えなかった。
これは、嘘をつかずに言う。
わたしの言葉が、染め手の手を止めたと知っても、あの手が、羨ましい。
甕の前に立って、青い糸を、自分の手で引き上げることを、わたしは、一度もしていない。
それは、いまも変わらない。
ただ、わたしは、気づいた。
四十年前に、わたしは、この気持ちに、「藍が好きだから」という名前をつけた。
毎朝、土間の入り口から、染め手の背中を、見るとき、わたしは、藍の色を好きなだけだと思っていた。
でも、そうではなかった。
羨ましいのは、あの手を、愛しているからだ。
青く染まった手を、わたしは、四十年、愛していた。
羨むことは、愛することの、別の呼び方だった。
羨ましさは、減らなかった。
減らなかったが、置き場所が一つできた。
六十冊の帳面の、色の名前の欄だ。
エピローグ
今年の十一月、わたしは、いつもの時間に、帳場の机に座った。
土間の奥で、千夏さんが、糸の束を、甕から引き上げていた。
最初は、黄色がかった、緑色だった。
空気に触れて、青くなっていく。
わたしは、その変わっていく色を、見ていた。
わたしの目に、それは、まっすぐに、見えた。
新しい帳面の、今日の頁を、開いた。
その糸の色を、書いた。
雨のあとの、瓦と、空のあいだの色。
書いて、少し迷って、一行、足した。
うちの工房の手が、いちばん青いとき。
千夏さんが、土間から、顔を上げた。
わたしは、小さく、うなずいた。
千夏さんは、その糸を、もう一度、甕に浸けた。
来年の十一月も、わたしは、この机に座る。
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