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2_アンコールの楽譜

二十五年前に町の楽団を抜けたトランペット吹きに、指揮者の幼なじみは、アンコールの楽譜を毎年一部多く刷らせていた。男は年に一度、客席の後ろに座る。羨ましさは消えない。ただ、羨ましさを置く場所が一つできる。

2_アンコールの楽譜

朗読で聴く

第一章 降りた側

広島の、川沿いの町で、一人暮らしをしている。

わたしは七十一になる。

二十五年前まで、町の楽団で、トランペットを吹いていた。

二十歳で入った。

同じ年に、幼なじみの男も入った。

小学校の帰り道に、川の土手で、よく一緒に石を投げた。

どちらが遠くまで投げられるか、毎日、競った。

宗田は、いつも、わたしより、二歩だけ、手前に落とした。

名前は、宗田という。

宗田は、はじめ、クラリネットだった。

それが、いつのまにか、指揮棒を持つようになった。

団員が足りなくなるたびに、宗田は、楽器を替え、役を替え、最後に、前に立った。

わたしは、ずっと、トランペットだった。

四十六の秋、わたしは、団を抜けた。

理由は、いくつもあった。

勤めの転勤が重なって、練習に出られない週が増えた。

唇の力が、若いころのようには、戻らなくなった。

高い音が、割れるようになった。

トランペットは、ごまかしの利かない楽器だ。

割れた音は、客席の、いちばん奥まで、届いてしまう。

それを、客席に聞かせるのが、怖くなった。

舞台の袖に、静かに、楽器を置いた。

格好よく言えば、引き際だ。

本当は、恥をかく前に、逃げたのだと思う。

宗田は、止めなかった。

「体を大事にしろよ」と言っただけだった。

楽団は、いまも続いている。

団員は三十人ほどで、年に一度、十一月に、市民会館で定期演奏会を開く。

わたしは、その日だけ、客席に座る。

それだけの付き合いを、二十五年、続けている。

第二章 構える唇

演奏会の日、わたしは、いちばん後ろの席に座る。

出口に近い、端の席だ。

いつも、同じ席に座る。

幕が上がって、宗田が、指揮台に立つ。

背中が、少し丸くなった。

あの背中に、二十五年のあいだに、いくつの曲が、載ったのだろう。

わたしには、見当もつかない。

それでも、棒を構えた瞬間の肩の線は、二十歳のころと、同じだった。

曲が始まる。

わたしは、膝の上で、手を組む。

客席は、七割ほど埋まっている。

咳払いが一つ、どこかで、聞こえる。

ホールの空調の音が、低く、続いている。

トランペットの出番が近づくと、唇が、勝手に動く。

息を吸う形になる。

口の端を、少しだけ引く。

もう、楽器はないのに、体が、構える。

わたしは、その唇を、手のひらで隠す。

隣の席の人に、見られたくない。

家に帰ると、唇が、しびれている。

会社では、この唇は、何も使っていない。

電話に出て、挨拶をして、ときどき、あくびをする。

二十五年、それだけのために、使ってきた口だ。

年に一度、客席の闇の中で、唇だけが、昔に戻る。

第三章 受付の人が数えているもの

市民会館の入り口に、楽団の後援会の受付がある。

そこに、いつも、同じ女の人が座っている。

名前は、知らない。

わたしが入るたびに、「ありがとうございます」と言って、手の中の小さな数取り器を、かちりと押す。

来場者を、数えている。

去年、その人が、わたしに、小声で言った。

「二十五回、続けて来てくださっていますね」

わたしは、驚いた。

数取り器では、人数しか数えられないはずだった。

「顔を、覚えていますから」

その人は、笑った。

わたしは、来た回数を、数えたことがない。

数えたら、その日が、義務になる。

かわりに、わたしが覚えているのは、別のものだ。

宗田の、棒の振り下ろしの、速さ。

最初の一拍の、わずかな、遅れ。

同じ演奏会の、同じ客席にいる二人が、まったく別のものを数えていた。

受付の人の二十五は、わたしを安心させる。

わたしが覚えている一拍の遅れは、誰にも言えない。

一度だけ、近所の人に、聞かれた。

「楽団に、戻りたい?」

わたしは、「戻らんよ」と答えた。

嘘のつもりはなかった。

七十一の唇で、高い音は出ない。

戻りたい、のとは違う。

宗田の背中が、羨ましいのだ。

戻りたい気持ちと、羨ましい気持ちは、別の部屋にあった。

それに気づくまで、十五年かかった。

第四章 一部多く

去年の演奏会のあと、会館のロビーで、一人の少女が、わたしに声をかけた。

十七歳ほどの、制服を着た子だった。

「あの、いつも、いちばん後ろの席の方ですよね」

わたしは、うなずいた。

「わたし、楽譜係なんです」

少女は、緊張した顔で、言った。

「アンコールの楽譜を、毎年、先生に言われて、コピーするんです」

「そのとき、先生が、必ず、言うんです」

少女は、息を吸った。

「第一トランペットは、一部、多く刷っておいて、って」

わたしは、意味が、わからなかった。

「団員の数より、一部、多く」

少女は、続けた。

「それで、いちばん上に、重ねておくんです。毎年。誰も取りに来ないのに」

わたしは、息をのんだ。

アンコールの曲は、毎年、変わる。

けれど、第一トランペットの譜面は、いつも、一部、余っていた。

誰かの席の、譜面台の上に置かれることもなく、舞台の袖の、棚に積まれていた。

「先生に、聞いたんです。これは誰のですかって」

少女は、少し笑った。

「そしたら、先生は、こう言いました。あいつの分だ、って」

わたしは、声が、出なかった。

客席の、いちばん後ろで、わたしが唇をしびれさせていた二十五年のあいだ、宗田は、毎年、わたしの分の楽譜を、一部、刷るよう言いつけていた。

誰も、吹かない譜面だった。

誰にも、渡さない譜面だった。

わたしが一度も数えなかった数を、宗田は、毎年、紙の枚数で、数えていた。

第五章 同じ棒

その夜、わたしは、川沿いの家で、一人、ビールの缶を、開けなかった。

唇を、指で、押さえていた。

羨ましさは、消えなかった。

これは、嘘をつかずに言う。

わたしの分の楽譜があると知っても、宗田が羨ましい。

二十五年、前に立って、振り続けたのは、宗田だ。

わたしは、客席の、いちばん後ろで、年を取った。

それは、いまも変わらない。

ただ、わたしは、気づいた。

二十五年前に、わたしは、この気持ちに、「懐かしい」という名前をつけた。

毎年、舞台の宗田を見るとき、わたしは、昔の友を、懐かしんでいるのだと思っていた。

でも、そうではなかった。

羨ましいと思うほど、わたしは、この友を、愛していた。

羨むことは、愛することの、別の姿だった。

羨ましさは、減らなかった。

減らなかったが、置き場所が一つできた。

舞台の袖の棚に積まれた、二十五部の、誰も吹かない楽譜だ。

エピローグ

今年の十一月、わたしは、いつもの席に座った。

幕が上がった。

宗田が、指揮台に立った。

アンコールの曲が、始まる前、舞台の袖から、あの少女が、小さな封筒を持って、客席の階段を上がってきた。

わたしの席の前で、立ち止まった。

封筒の中に、楽譜が、一部、入っていた。

第一トランペット、と書いてあった。

少女は、何も言わずに、頭を下げて、走って戻った。

わたしは、その譜面を、膝の上で開いた。

曲は、宗田の棒で、始まった。

わたしは、客席の、いちばん後ろで、楽器のない手に、楽譜を持って、唇を、構えた。

息を、吸った。

音は、出なかった。

けれど、譜面の音符を、最後まで、目で追った。

演奏が終わって、拍手が起きた。

わたしは、その譜面を、鞄にしまった。

来年の十一月も、わたしは、この席に座る。

ソウルミッション358

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