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0_試し刷りの一枚

二十五年前に活版印刷所を降りた男に、残った同期の友が毎月、試し刷りの一枚を取っておいた。男はそれを損紙だと思ってきた。羨ましさは消えない。ただ、羨ましさを置く場所が一つできる。

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朗読で聴く

第一章 降りた側

盛岡の外れで、年金暮らしをしている。

わたしは六十四になる。

二十五年前まで、駅の裏の小さな活版印刷所で、職工をしていた。

十八で入った。

同じ日に入った男が、もう一人いた。

名前は、森田という。

森田とわたしは、同期だった。

鉛の活字を拾って、組んで、刷る。

二人で、二十一年、同じ工場の床を踏んだ。

二月の、寒い朝だった。

三十九のとき、わたしは辞めた。

理由は、いくつもあった。

子どもが生まれたばかりで、給料の上がらない印刷所に、先は見えなかった。

活版がすたれるのは、誰の目にも明らかだった。

そのとき、紙問屋の知り合いから、事務の口を紹介された。

わたしは、その口に乗った。

決まった給料と、静かな夜を、選んだ。

選んだ、と言うのは、少し、格好をつけすぎだ。

本当は、印刷所が潰れる夜を、毎晩のように夢に見て、息ができなくなっていた。

森田は、止めなかった。

「そうか」と言っただけだった。

その日の夕方、森田は、いつもの手つきで、活字を拾っていた。

わたしは、その背中に、何も言えなかった。

工場は、いまも続いている。

オフセットの機械の隣に、古い活版機を一台だけ残して、名刺と、年賀状と、結婚式の席次表を刷っている。

わたしは、月に一度、そこへ行く。

第一火曜日の、午後。

それだけの付き合いを、二十五年、続けている。

第二章 鉛の指

月に一度の火曜日、わたしは、森田の印刷所の戸を開ける。

戸には、小さな鈴がついている。

鈴の音で、森田は顔を上げる。

「おう」と言う。

わたしも、「おう」と言う。

それだけだ。

わたしは、奥の机の前に立つ。

机の上には、活字のケースが並んでいる。

浅い木の箱が、数十の小さな升に区切られていて、一つの升に、一つの文字が入っている。

わたしの指は、いまでも、升の位置を覚えている。

「あ」は左の上、「ん」は右の下、「の」は真ん中より少し手前。

事務の仕事をして二十五年になるが、指だけが、取り残されている。

ケースの前に立つと、右の人差し指と中指が、勝手に動く。

活字を拾う形になる。

空をつまんで、親指で押さえる。

わたしは、その手を、ポケットに入れる。

森田に、見られたくない。

帰りの電車で、手を出して眺める。

鉛の黒ずみは、もう爪の間にない。

けれど、指の腹だけが、いまも、硬い。

会社では、この指は、何の役にも立たない。

キーボードを叩くのも、判子を押すのも、親指と人差し指で足りる。

活字を拾う指は、月に一度、森田の机の前でだけ、動く。

第三章 森田が数えているもの

森田の印刷所に、奥さんがいる。

祥子さんという。

わたしが行くたびに、「もう三百回になるわね」と言う。

月に一度が二十五年で、三百回。

祥子さんは、数えている。

わたしが戸を開けた回数を、数えている。

手帳に書いているわけではない。

けれど、言い間違えたことが、一度もない。

わたしは、足を運んだ回数を数えたことがない。

数えたら、その火曜日が、義務になる。

かわりに、わたしが覚えているのは、別のものだ。

森田の指の、黒さ。

二十五年前より、指の腹の黒が、一段、深くなった。

わたしの指は、白いまま、硬いだけだ。

同じ火曜日の、同じ机の前に立っている二人が、まったく別のものを数えていた。

祥子さんの三百は、わたしを安心させる。

わたしが覚えている黒さの差は、誰にも言えない。

一度だけ、祥子さんに、聞かれた。

「うちの人のこと、うらやましい?」

わたしは、「まさか」と答えた。

嘘のつもりはなかった。

二十五年前に降りたのは、わたしだ。

いまさら、戻れるわけがない。

六十四の体で、立ち仕事はできない。

戻りたい、のとは違う。

森田が、羨ましいのだ。

違う、と自分に言い聞かせられるようになるまで、十五年かかった。

第四章 引き出しの中

帰り際、森田は、必ず、一枚の紙をくれる。

刷り上がったばかりの、半分に折った紙だ。

文字の端が、少しにじんでいる。

わたしはそれを、刷り損じの紙だと思ってきた。

損紙、という。

工場で、刷りの調子を見るために、最初に刷る一枚だ。

捨てるものだ。

森田は、わたしが来るたびに、それを一枚、手渡す。

わたしは、「ありがとう」と言って、鞄にしまう。

家の机の引き出しに、三百枚、たまっている。

捨てられないでいる。

はじめの数年は、これが、森田なりの気づかいだと思っていた。

去年の二月、紙の配達に来る青年が、わたしに話しかけた。

二十代の、背の高い青年だった。

「いつも来られている方ですよね」

わたしは、うなずいた。

青年は、少し迷ってから、言った。

「社長、月の初めの火曜日だけ、朝いちばんに、あの一枚を刷るんです」

わたしは、聞き返した。

「損紙じゃないのか」

青年は、首を振った。

「ほかの日は、刷り出しの一枚は、すぐ捨てます。火曜日のだけは、インクが乾くまで待って、引き出しに入れておくんです。お客さんが見えるまで」

「ぼくが、一度、間違えて捨てそうになったら、社長に、すごく怒られました」

青年は、笑って言った。

「あの人の分だから、って」

わたしは、その場で、何も答えられなかった。

引き出しの中で、乾いた一枚が、二十五年、わたしを待っていた。

三百枚の、取り置きだった。

わたしが、一度も数えなかった数を、森田は、毎月、枚数で数えていた。

第五章 同じ場所

その夜、わたしは、引き出しの三百枚を、全部、机の上に広げた。

文字は、毎回、違った。

名刺の見本、年賀状の文面、結婚式の席次の一行。

どれも、森田が刷った文字だった。

わたしは、それを、一枚ずつ、眺めた。

羨ましさは、消えなかった。

これは、嘘をつかずに言う。

この三百枚を見ても、森田が羨ましい。

わたしが降りたあとの二十五年を、森田は、鉛の中で立っていた。

わたしは、事務の机の前で、年を取った。

それは、いまも変わらない。

ただ、わたしは、気づいた。

二十五年前に、わたしは、羨ましさに、「応援している」という名前をつけた。

毎月、森田の机の前に立つとき、わたしは、友の仕事を、応援しているのだと思っていた。

でも、そうではなかった。

羨ましいのは、愛しているからだ。

羨むことと、愛することは、同じ指の形をしている。

わたしの指が、ケースの前で動くのは、鉛の升の位置を覚えているからだけではない。

その升の向こうに、森田が立っているからだ。

羨ましさは、減らなかった。

減らなかったが、置き場所が一つできた。

引き出しの中の、三百枚だ。

エピローグ

三月の、第一火曜日。

わたしは、いつものとおり、駅から歩いて、印刷所の戸を開けた。

鈴が鳴った。

森田が顔を上げて、「おう」と言った。

わたしも、「おう」と言った。

奥の机の前に立った。

活字のケースの、「の」の升を、指で、一度だけ、なでた。

森田は、何も言わなかった。

帰り際、森田が、半分に折った紙を、差し出した。

インクが、乾いていた。

わたしは、それを、両手で受け取った。

そして、初めて、その場で広げた。

森田の組んだ文字が、一行、まっすぐに並んでいた。

「ありがとう」と言った。

森田は、「おう」と言った。

三百一枚目を、鞄の、いちばん手前にしまった。

外は、まだ、雪だった。

来月の第一火曜日も、わたしは、この戸を開ける。

ソウルミッション358

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