9_第二日曜の玄関
離婚後、会わせてもらえない幼い娘の父、バスの整備士。できるのは毎月第二日曜、玄関の前に五分立つことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

朗読で聴く
第一章 七月の玄関
神奈川の海沿いの町で、バスの整備をしている。
わたしは三十九になる。
営業所の整備工場で、十六年、働いている。
毎朝、ずらりと並んだバスの下に、潜り込む。
ブレーキの具合、タイヤの減り、エンジンの音。
エンジンをかけて、耳を澄ます。
異音は、ほんの小さな、擦れる音から、始まる。
その音を聞き分けるのに、五年かかった。
一台ずつ、確かめて、直す。
誰にも気づかれない仕事だ。
バスが、毎日、時刻どおりに走るのは、当たり前だと思われている。
けれど、その当たり前の下には、必ず、誰かが、油にまみれて、潜っている。
七月の、第二日曜だった。
梅雨が明けたばかりの空が、白く眩しくて、アスファルトから、熱気が立ちのぼっていた。
わたしは、駅から、歩いて十五分の、住宅街へ向かった。
古い二階建ての、小さな家が、そこにある。
玄関の脇に、小さな自転車が、立てかけてある。
補助輪のついた、ピンク色の自転車だ。
三年前の、娘の誕生日に、わたしが贈ったものだ。
赤いリボンを、ハンドルに、結んで、玄関に、置いた。
あの日は、まだ、娘に、会えていた。
娘は、七歳になった。
いまごろ、小学二年生のはずだ。
算数が好きか、給食が好きか、わたしは、知らない。
知らないことが、一年ごとに、増えていく。
三年前に、妻と、離婚した。
それからは、娘に、会えていない。
調停では、月に一度の面会が、認められた。
けれど、娘が、会いたくないと言っている、と、元妻は言う。
わたしには、その言葉が、本当かどうか、確かめる方法がない。
玄関のドアは、閉まっている。
わたしは、そのドアの前で、毎月、同じことをしている。
ドアの向こうに、娘はいる。
わたしは、その娘に、返す答えを、持っていない。
第二章 立つ体
娘が、なぜ、会いたくないと言うのか。
理由は、わかっている。
離婚の前の、半年のあいだ、わたしは、夜勤が続いて、家にほとんど、いなかった。
娘が、熱を出した夜にも、いなかった。
運動会にも、行けなかった。
その積み重ねを、娘は、覚えている。
五歳の子どもは、いなかった父親のことを、「いない人」として、覚える。
それは、わたしが、作った記憶だ。
わたしは、その記憶を、書き換えることが、できない。
調停のあとの、最初の面会の日、わたしは、玄関のチャイムを、押した。
ドアは、開かなかった。
元妻が、ドアの向こうから、言った。
今日は、会いたくないって。
わたしは、わかった、と答えた。
それしか、言えなかった。
それから、毎月、第二日曜に、同じ玄関の前に立つようになった。
最初は、ただ、立っているだけだった。
それから、いつのまにか、チャイムを、一度だけ押す、という習慣が、できた。
押して、五分。
ドアの前に、立っている。
それが、わたしの、毎月の習慣になった。
ドアの横には、郵便受けがある。
小さな名前の札が、わたしの知らない苗字に、変わっている。
三年で、わたしの体は、その五分を、覚えてしまった。
バスの下に潜るときの、あの、体を縮める癖が、玄関の前にも、出る。
肩を、少しだけ、すぼめて、立つ。
顔を、上げない。
ドアが開いたときに、すぐに頭を下げられるように。
でも、ドアは、まだ、一度も、開いていない。
第三章 班長が数えるもの
整備工場の、班長は、五十代の、無口な人だ。
班長は、シフト表の、空きを数えている。
誰が、いつ、休めるか。
誰が、夜勤を、何回やったか。
毎月、手書きで、整えている。
それは、工場を、回すための、大切な数字だ。
わたしは、第二日曜の、休みの数を、覚えている。
数えているというより、覚えてしまっている。
娘に会えなかった日曜の数が、三年ぶんで、三十六。
何の役にも立たないし、誰にも渡せない。
同じ工場で働く二人が、別のものを数えていた。
班長の数字は、シフト表に残る。
わたしの数えているものは、どこにも書けない。
班長は、わたしの事情を、知っている。
何も、聞かない。
ただ、毎月、第二日曜だけは、わたしの名前を、休みの欄に、先に書いておいてくれる。
わたしが、頼んだわけではない。
ある月から、そうなっていた。
一度だけ、班長に、言われた。
日曜、行ってるのか、と。
わたしは、はい、と答えた。
班長は、そうか、と言った。
それだけだった。
それ以上の言葉は、いらなかった。
第四章 それしかできない
わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。
毎月、第二日曜に、玄関の前に、五分、立つこと。
それ以外には、何も、していない。
ドアを、叩くことは、できる。
名前を、呼ぶことも、できる。
けれど、わたしは、そうしない。
叩いたあと、何を言うのか、わたしは、一つも持っていない。
夜勤をしていたことを、謝るのか。
それとも、会いたかった、と言うのか。
どちらも、言った瞬間に、娘を、追い詰める。
言葉がないまま叩くのは、こじ開けるだけだ。
だから、叩かない。
弁護士には、もう一度、調停を申し立てれば、会わせてもらえる可能性があると、言われた。
けれど、それは、娘の意思を、押し切ることになる。
わたしは、それを、したくなかった。
これが、正しいのかどうか、わたしには、わからない。
臆病なだけかもしれない。
そう言われたら、否定できない。
役に立っている、と思えた日は、一日もない。
この状況の前で、わたしは無力だ。
三年やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。
行くのを、やめようかと、考えたことは、何度かある。
娘のためには、わたしがいない生活のほうが、穏やかなのかもしれない。
けれど、やめられなかった。
やめたら、あの玄関の前に、誰も立たなくなる。
役に立たない父親でいいから、立つ人間が、要る。
そう思ったとき、少しだけ、楽になった。
第五章 押さない日
今年の春から、わたしは、チャイムを、押さない日が、できた。
押さない、と決めたわけではない。
玄関の前に立って、指を伸ばしかけて、止まった。
チャイムの音が、ドアの向こうで、娘の耳に、入るのが、急に、怖くなった。
わたしの来たことを、知らせる音だ。
それが、あの子にとって、どんな音なのか、わたしは、知らない。
その日は、押さずに、五分、立った。
補助輪の自転車が、玄関の脇で、日差しを浴びていた。
サドルの上に、薄く、埃が、積もっている。
三年前の、わたしの贈り物は、一度も、乗られていないのかもしれない。
それとも、乗って、また片づけたのかもしれない。
確かめる方法は、ない。
五分たって、わたしは、頭を下げて、帰った。
その日、玄関の二階の窓の、カーテンが、少し、動いた気がした。
そう思うのは、わたしの、思い込みかもしれない。
確かめる方法は、ない。
それでも、あの日から、わたしは、少しだけ、考え方を変えた。
来たことを、知らせなくても、いい。
ただ、そこに、立っている。
答えがないまま、玄関の前に居続ける。
わたしにできることは、いまも、それだけだ。
ただ、立つ理由が、少しだけ変わった。
娘に気づいてもらいたいからではなく、あの自転車の隣に、わたしの影が、短く、落ちるのが、好きだから、立っている。
エピローグ
今月も、第二日曜が、来た。
空は、梅雨明けの、白い光に、満ちていた。
わたしは、玄関の前に、立った。
チャイムの白いボタンが、日差しに、光っていた。
指を、伸ばしかけて、下ろした。
補助輪の自転車が、脇に、立っていた。
サドルの埃は、先月より、少しだけ、薄くなっていた。
わたしは、息を、止めた。
それから、ゆっくりと、吐いた。
五分。
ドアの向こうから、何も、聞こえなかった。
何も解決していない。
答えは、まだない。
来月も、わたしは、ここに立つ。
五分がたった。
頭を下げて、歩き出した。
背中のほうで、風が、自転車のベルを、小さく鳴らした。
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