8_門柱の柿
三十年、戸を開けない弟に、言葉を持たない柿農家の兄。できるのは弟の誕生日の朝、門柱に柿を一つ置くことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

朗読で聴く
第一章 十一月の丹波
京都の山あいの村で、柿を作っている。
わたしは六十八になる。
父から継いだ畑で、四十五年、同じ柿の木の世話をしてきた。
十一月は、収穫の月だ。
朝の霜が、畑の草を白くして、柿の枝には、橙色の実が、重たそうにぶら下がっている。
葉が落ちたあとの、枝の先に、柿だけが残る。
枝の先の実は、霜に打たれると、甘くなる。
農家の言い伝えだが、わたしは、それを、信じている。
その色が、遠くの山の紅葉よりも、わたしは好きだ。
十一月三日の朝だった。
空が、高く澄んでいて、遠くの谷から、煙の匂いが流れてきた。
わたしは、畑でいちばん形のいい柿を、一つ、もいだ。
手のひらに、冷たくて、少し重い。
皮の表面に、細かい白い粉が、ふいている。
指でなぞると、すぐに、消える。
それを、手拭いに包んで、軽トラックの助手席に置いた。
隣の村まで、車で、二十分。
弟の家が、そこにある。
弟は、わたしより、三つ下で、六十五になる。
三十年前に、この家を出た。
父が亡くなったあとの、畑の分け方で、わたしたちは、揉めた。
揉めたというより、お互い、言ってはならないことを、言った。
それきり、顔を合わせていない。
弟の家の玄関の戸は、一度も、わたしの前で、開いたことがない。
わたしは、その戸の前で、毎年、同じことをしている。
戸の向こうに、弟はいる。
わたしは、その弟に、返す答えを、持っていない。
第二章 置く手
弟が、なぜ、戸を開けないのか。
理由は、わかっている。
三十年前の、あの日に、わたしが言ったことだ。
おまえには、畑を継ぐ資格がない、と。
弟は、その言葉を、聞いた。
黙って、聞いた。
それから、荷物をまとめて、家を出た。
わたしは、あの言葉を、取り消したことが、ない。
取り消す方法が、わからなかったのだ。
謝れば、いいのかもしれない。
けれど、謝って、どうなるのか。
三十年のあいだ、何度も、考えた。
若いころは、弟のほうから、来るだろうと思った。
弟も、同じことを、思っていたかもしれない。
二人とも、待っていた。
待っているうちに、三十年が、たってしまった。
弟の誕生日の朝に、柿を一つ、置く。
それは、十五年前に、始めたことだ。
母が、亡くなった年だった。
母の葬式に、弟は、来なかった。
知らせが届かなかったのではない。
来られなかったのだと、わたしは、信じている。
その日から、わたしは、弟の家の門柱の上に、柿を置くようになった。
門柱は、石でできている。
上が、平らになっていて、ちょうど、実が一つ載る。
わたしの手は、その高さを、覚えてしまった。
十五年、毎年、同じ場所に、置いている。
置いたあと、振り返る。
戸が、開いていないか。
窓の障子が、動いていないか。
見るのは、ほんの、数秒だ。
それが、わたしの、毎年の習慣になった。
柿の木の下には、枯れ葉が、厚く積もっている。
踏むと、乾いた音がして、土の匂いが、立ちのぼる。
第三章 青年が数えるもの
村の農協に、若い職員の、青年がいる。
三十になる、真面目な男だ。
青年は、柿の出荷の箱数を、数えている。
今日は、何箱。
去年の同じ日と、比べて、どうか。
農家ごとの、数字を、一覧表にして、貼り出している。
それは、村の農業を、守るための、大切な数字だ。
わたしは、柿を置いた年の数を、覚えている。
数えているというより、覚えてしまっている。
その数が、十五。
何の役にも立たないし、誰にも渡せない。
同じ村で、柿を見ている二人が、別のものを数えていた。
青年の数字は、一覧表に残る。
わたしの数えているものは、どこにも書けない。
一度、その青年に、聞かれた。
毎年、いちばんいい柿を、一つだけ、取っておきますよね、と。
あれは、どこへ、持っていくんですか、と。
わたしは、答えなかった。
笑ってごまかした。
青年は、それ以上、何も、聞かなかった。
ただ、その年から、収穫のとき、柿の枝の、いちばんいい位置の実を、わたしのために、残しておいてくれるようになった。
あの人なりの、静かな、親切だった。
第四章 それしかできない
わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。
弟の誕生日の朝に、柿を、一つ、門柱の上に置くこと。
それ以外には、何も、していない。
戸を、叩くことは、できる。
弟の名を、呼ぶことも、できる。
けれど、わたしは、そうしない。
叩いたあと、何を言うのか、わたしは、一つも持っていない。
三十年前のあの言葉を、取り消すのか。
それとも、元気か、と聞くのか。
どちらも、言った瞬間に、嘘になる。
言葉がないまま叩くのは、こじ開けるだけだ。
だから、叩かない。
これが、正しいのかどうか、わたしには、わからない。
臆病なだけかもしれない。
そう言われたら、否定できない。
役に立っている、と思えた日は、一日もない。
この三十年の前で、わたしは無力だ。
三十年たって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。
手紙を、書こうとしたことも、ある。
十回は、書きはじめた。
どれも、三行目で、手が止まった。
封筒に入れて、出したことは、一度もない。
柿は、弟の家の門柱の上で、翌朝には、なくなっている。
門柱の石の上には、小さな丸い跡だけが、残っている。
朝露で、そこだけ、色が濃くなっている。
誰が、取ったのか。
弟か。
鳥か。
野良猫か。
確かめたことは、ない。
確かめる方法も、ない。
第五章 振り返らない
今年の十一月三日、いつものように、柿を持って、弟の家へ向かった。
門柱の上に、手拭いを開いて、柿を置いた。
石の上で、柿の橙色が、朝の光を受けて、鈍く光った。
わたしは、手拭いを畳んで、ポケットにしまった。
それから、軽トラックのほうへ、歩き出した。
いつもなら、そこで、振り返る。
戸が、開いていないか。
障子が、動いていないか。
その日は、振り返らなかった。
理由は、よくわからない。
十五年のあいだ、振り返るたびに、同じ戸が、閉まったままなのを、確かめてきた。
そのたびに、わたしは、少しずつ、すり減っていった。
あの日は、すり減りたくなかったのかもしれない。
それとも、ただ、振り返らなくても、柿はそこにあると、思えたのかもしれない。
背中のほうで、風が、柿の木の枝を、少し鳴らした。
弟の家の庭にも、古い柿の木が、一本ある。
父が、植えたものだ。
それが、わたしの背中の、すぐ後ろにあった。
振り返らなかった、というだけのことだ。
それが、何かを変えるとは、思っていない。
その日から、何かが、起きたわけでもない。
それでも、わたしは、少しだけ、考え方を変えた。
戸が開くのを、待つのをやめた。
答えがないまま、門柱の前に居続ける。
わたしにできることは、いまも、それだけだ。
ただ、置く理由が、少しだけ変わった。
弟に許されたいからではなく、あの石の上に、わたしの柿が載っているのが、好きだから、置いている。
エピローグ
その翌週、柿の収穫が、終わった。
畑の木々は、葉を落として、枝だけが、空に伸びていた。
わたしは、はしごを片づけた。
手拭いを、洗って、干した。
来年の十一月三日にも、わたしは、いちばんいい柿を、一つ、選ぶ。
それは、もう、決めている。
夕暮れの畑の端に、一つだけ、もぎ残した柿が、枝に残っていた。
わたしは、それを、見上げた。
鳥が、きっと、食べるだろう。
何も解決していない。
答えは、まだない。
母屋の端の座敷で、茶を飲んだ。
遠くの山が、ゆっくりと、暗くなっていった。
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