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6_台所の歌

母のことだけを思い出せない息子に、思い出させてはいけない郵便局員の母。できるのは毎日、台所で同じ子守歌を口ずさむことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

6_台所の歌

朗読で聴く

第一章 三月の家

東京の下町で、郵便局に勤めている。

わたしは四十三になる。

窓口に座って、十七年になった。

切手を売って、荷物を計って、年金を下ろす。

窓口の向こうに、近所のおばあさんが、小銭を数えながら、並ぶ。

その指先を、見ているのが、好きだ。

いつも同じ椅子に座って、同じ町の人たちの顔を、見ている。

三月の、まだ寒い夕方だった。

商店街のほうから、揚げ物の匂いが、風に乗って流れてきていた。

仕事を終えて、アパートの階段を上り、鍵を開けた。

玄関に、小さな運動靴が、揃えて置いてあった。

踵が、少し、すり減っている。

悠斗は、歩くとき、左足を、少しだけ、引きずるように、地面に当てる。

それは、生まれたときからの癖だ。

息子の、悠斗の靴だ。

悠斗は、十歳になった。

小学四年生で、算数が得意で、給食のカレーが好きな子だ。

台所の奥の、小さな食卓で、宿題を広げていた。

わたしが、ただいま、と言うと、悠斗は、顔を上げた。

丁寧に、頭を下げた。

おかえりなさい、郵便局の人。

三年前から、悠斗は、わたしを、そう呼ぶ。

息子は、母親のことだけを、思い出せない。

わたしは、その呼び方に、返す答えを、持っていない。

第二章 口ずさむ喉

三年前の、春のことだった。

悠斗は、学校の帰り道で、自転車にぶつけられた。

大きな怪我では、なかった。

頭を少し打って、病院で、二晩、様子を見た。

目を覚ました悠斗は、父親の顔も、祖母の顔も、友達の名前も、全部、覚えていた。

かけ算の歌も、最後まで言えた。

ただ、わたしの顔だけが、わからなかった。

お母さん、と呼ぶと、悠斗は、不思議そうな顔をした。

知らない人に、そう呼ばれたような、顔だった。

医者は、解離性の健忘だと言った。

事故のときの、何かが、記憶の一部を、閉じてしまったのだという。

原因は、はっきりしている。

けれど、どうすれば戻るのかは、誰にも、わからない。

無理に思い出させると、かえって悪くなることもある、と言われた。

戻る人もいる。

戻らない人もいる。

それは、時間の問題かもしれないし、そうでないかもしれない。

はっきりした答えは、なかった。

若いころの、わたしは、じっと待つことが、苦手だった。

アルバムを見せたことがある。

悠斗は、写真の中のわたしを指して、この人は、郵便局の人に、似てますね、と言った。

わたしは、笑って、そうね、と答えた。

それ以来、思い出させるのを、やめた。

かわりに、毎日、台所で、同じ歌を、口ずさむ。

悠斗が、赤ちゃんのころ、寝かしつけるときに歌っていた、子守歌だ。

台所の棚の上には、小さな木のオルゴール箱が、いまも置いてある。

同じ曲が、鳴る箱だ。

悠斗が生まれたとき、夫の母が、贈ってくれた。

蓋を開ければ、鳴る。

けれど、わたしは、一度も、あの蓋を、開けていない。

歌うなら、自分の声で、歌いたかった。

夕飯の支度のあいだ、鍋の湯気の向こうで、小さな声で、歌う。

悠斗には、聞こえているのか、いないのか、わからない。

それが、わたしの、毎日の習慣になった。

三年のあいだに、わたしの喉は、その歌の音程を、体で、覚えてしまった。

第三章 療法士が数えるもの

悠斗は、月に二度、病院の外来に通っている。

担当の、作業療法士が、いる。

三十代の、穏やかな女性だ。

療法士さんは、悠斗の、反応の回数を、記録している。

その日の、会話の長さ。

目が合った秒数。

母親の話題に、どれだけ、落ち着いて答えられたか。

それは、治療に、必要な記録だ。

療法士さんは、その数字を、いつも、静かに、整理している。

わたしは、歌った夕方の数を、覚えている。

数えているというより、覚えてしまっている。

その数が、三年ぶんで、千と少し。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

同じ子どもを見ている二人が、別のものを数えていた。

療法士さんの数字は、カルテに残る。

わたしの数えているものは、どこにも書けない。

一度、療法士さんに、聞かれた。

お母さんは、悠斗くんに、思い出してほしいと、思っていますか、と。

わたしは、すぐに、答えられなかった。

思い出してほしい。

けれど、それは、わたしの願いだ。

悠斗の願いでは、ない。

わたしが、思い出してほしいと願えば願うほど、悠斗は、知らない人から、望まれているような、顔になる。

それが、わかっている。

療法士さんは、そうですか、と言って、それ以上は、何も聞かなかった。

第四章 それしかできない

わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。

毎日、台所で、同じ歌を、口ずさむこと。

食事は、作っている。

洗濯も、している。

宿題は、見ている。

けれど、悠斗の記憶を、戻すことは、できない。

無理に、思い出させることも、してはいけない。

母親として、扱ってほしいと、頼むことも、できない。

役所の人にも、学校の先生にも、相談した。

できることは、見守ること、と、みんな言った。

それは、正しい答えだった。

けれど、見守ることが、わたしに、何かをさせてくれるわけではなかった。

役に立っている、と思えた日は、一日もない。

これは、謙遜ではなく、正確な言い方だと思っている。

この問題の前で、わたしは無力だ。

三年やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。

離れて暮らそうかと、考えたことは、何度かある。

悠斗のためには、母親のいない環境のほうが、楽なのかもしれない、と。

夫の母が、近所に住んでいる。

悠斗は、祖母の家にも、よく泊まる。

けれど、台所で、歌えなくなる。

それだけが、どうしても、引っかかった。

わたしが、いなくなって、誰が、あの歌を、鍋の湯気の中で、歌うのか。

それが、わたしの、小さな、傲慢なのかもしれない。

第五章 追う目

先月の夕方、いつものように、台所に立った。

鍋に水を張って、火にかけた。

湯が、小さな泡を立てはじめたころ、わたしは、歌い出した。

小さな声で、いつもの子守歌を。

食卓で宿題をしていた悠斗の、鉛筆の音が、ふっと止まった。

わたしは、振り向かなかった。

歌を、続けた。

鍋の湯気が、ゆっくり立ちのぼった。

しばらくして、台所の窓ガラスに、悠斗の影が、映っているのが、見えた。

食卓の椅子から、少し、身を乗り出していた。

目が、わたしの背中を、追っていた。

歌の、いちばん最後の音まで。

わたしは、歌い終えて、ゆっくり振り向いた。

悠斗は、慌てて、ノートに、目を戻した。

何も言わなかった。

わたしも、何も言わなかった。

それだけのことだった。

あの目に、意味があるのかどうかは、わからない。

悠斗が、歌を思い出したのかどうかも、確かめる方法はない。

たまたま、鉛筆が止まっただけかもしれない。

それでも、あの日から、わたしは、少しだけ、考え方を変えた。

悠斗に、母親を思い出してもらうことは、もう、いい。

答えがないまま、台所に居続ける。

わたしにできることは、いまも、それだけだ。

ただ、歌う理由が、少しだけ変わった。

悠斗のためというより、あの追ってくる目を、また見たいから、歌っている。

そう言うのは、少し、ずるいのかもしれない。

エピローグ

今夜も、台所に、湯気が立っていた。

窓の外では、下町の屋根の上に、細い月が出ていた。

悠斗は、食卓で、宿題を広げていた。

わたしは、鍋に、味噌を溶いた。

それから、小さな声で、歌い出した。

悠斗の鉛筆が、また、止まった。

わたしは、歌を、続けた。

台所の窓ガラスに、悠斗の影が、また、映った。

影が、少し、こちらに傾いた。

歌の最後の音が、湯気の中に、溶けていった。

何も解決していない。

答えは、まだない。

明日の夕方も、わたしは、台所に立つ。

味噌の香りが、ゆっくり、部屋の中に、広がっていった。

ソウルミッション358

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