← あなたの魂のテーマを探す に戻る

5_夜の髪

妹を母と呼ぶ姉に、思い出してもらう方法を持たない元・美容師の妹。できるのは毎晩、姉の髪をとかすことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

5_夜の髪

朗読で聴く

第一章 十一月の家

神奈川の海に近い町で、姉と二人で暮らしている。

わたしは七十二になる。

若いころから、五十年、美容師をしていた。

駅前の小さな店で、お客さんの髪を、切って、巻いて、結った。

成人式の朝は、まだ暗いうちから、店を開けた。

振袖の娘さんの髪を、一本ずつ、手で、結い上げた。

出来上がって、鏡を見た娘さんが、息を呑む。

その瞬間が、わたしは、好きだった。

店を閉めて、六年になる。

姉は、わたしより四つ上で、七十六になった。

一年半前から、姉の頭の中の、時間が、少しずつ、ずれはじめた。

十一月の、風の冷たい夕方だった。

海のほうから、湿った潮の匂いが、窓の隙間を抜けて、流れ込んできた。

居間のストーブの上で、やかんが、小さく鳴っていた。

姉は、炬燵に入って、毛糸のひざ掛けを、膝に広げていた。

そのひざ掛けは、母が、編んだものだ。

赤と緑の、不揃いな縞が、色あせている。

わたしが、台所から、お茶を運んでいくと、姉は、顔を上げた。

そして、にっこり笑って、言った。

お母さん、ありがとう。

母は、三十年前に、亡くなっている。

わたしは、母ではない。

仏壇の母の写真は、六十八歳のときのものだ。

いまのわたしは、その母より、四つ年上になっている。

けれど、半年前から、姉は、わたしを、そう呼ぶ。

その呼び方に、わたしは、返す答えを、持っていない。

第二章 梳く手

はじめのうちは、訂正した。

お姉ちゃん、わたしよ、と言った。

妹の、わたしよ、と。

姉は、不思議そうに、わたしの顔を、じっと見た。

それから、しばらく考えて、ああ、そうね、と言った。

けれど、数分もたつと、また、お母さん、と呼んだ。

わたしが、訂正するたびに、姉は、少し、怯えた。

自分が、何か間違ったことを言ったのかと、不安になるらしい。

その顔を見るのが、つらかった。

それで、訂正を、やめた。

いまは、はい、と答えている。

母の声を、真似たわけではない。

ただ、はい、と言うだけだ。

それが、姉を、いちばん安心させる。

夜は、姉の髪を、梳く。

風呂から上がって、寝間着に着替えたあと、居間の椅子に座らせる。

木の櫛を、持つ。

姉の髪は、細くて、白くなった。

若いころは、豊かな黒髪だった。

毛先から、ゆっくり、梳く。

絡まっているところは、指で、そっと、ほどく。

それから、根元から、毛先まで、一気に、通す。

五十年、美容師をして、わたしの手は、人の髪の向きを、覚えてしまった。

姉の髪の癖も、知っている。

右の耳の後ろが、少し、跳ねる。

そこだけは、時間をかけて、櫛を寝かせる。

これが、わたしの、毎晩の習慣になった。

一年半、一晩も、欠かしていない。

風邪をひいた夜も、膝の痛い夜も、櫛だけは、手に取った。

手が震える日は、片手で、もう一方の手首を、支えた。

第三章 姪が数えるもの

姉には、娘が一人いる。

わたしの姪の、真由美だ。

四十八になる。

都内で、働いている。

真由美は、週末ごとに、この家へ来る。

来るたびに、母親の顔を、じっと見る。

それから、聞く。

お母さん、わたしの名前、わかる、と。

姉は、にこにこして、あなた、親切な人ね、と答える。

その答えを、真由美は、毎週、ノートに書く。

名前を呼ばれた回数と、呼ばれなかった回数。

先月は、三回、呼ばれた。

今月は、まだ、一回も呼ばれていない。

真由美の数字は、母親を、思い出したいという、必死さから出ている。

わたしは、梳いた夜の数を、覚えている。

数えているというより、覚えてしまっている。

その数が、一年半ぶんで、五百と少し。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

同じ家にいる二人が、別のものを数えていた。

真由美の数字は、ノートに残る。

わたしの数えているものは、どこにも書けない。

一度、真由美に、言われた。

叔母さんは、いいね、母に、母として扱われて、と。

責める声ではなかった。

むしろ、羨ましそうだった。

わたしは、何も答えられなかった。

娘として、名前を呼ばれたい真由美。

母として、名前を呼ばれつづけている、わたし。

どちらが、つらいのか、わたしにも、わからなかった。

第四章 それしかできない

わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。

毎晩、姉の髪を、梳くこと。

それ以外のことは、介護として、している。

けれど、姉の頭の中の、時間を戻すことは、できない。

進行を、止めることもできない。

わたしを、妹として、思い出してもらうこともできない。

医者には、何度も、聞いた。

できるのは、穏やかに過ごせるように、支えること、と言われた。

わたしは、その言葉に、うなずいた。

それは、正しい答えだった。

けれど、答えが正しいことと、何かができることは、別だった。

役に立っている、と思えた日は、一日もない。

これは、謙遜ではなく、正確な言い方だと思っている。

この病気の前で、わたしは無力だ。

一年半やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。

施設に預けようと、考えたことは、何度かある。

真由美にも、勧められた。

けれど、夜の髪を梳く時間が、なくなる。

それが、どうしても、引っかかった。

わたしが、いなくなって、誰が、あの髪を、梳くのか。

施設の人は、きっと、親切だ。

でも、あの右の耳の後ろの癖を、知らない。

それが、わたしの、小さな、傲慢なのかもしれない。

第五章 はい、の声

先月の夜、いつものように、姉を椅子に座らせた。

木の櫛を、持った。

梳きはじめたとき、姉が、小さな声で、言った。

お母さん、今日も、ありがとう。

わたしは、いつものように、はい、と答えた。

そのとき、自分の声が、いつもと違うことに、気づいた。

少しだけ、低くて、ゆっくりだった。

母の声に、近かった。

真似ようとしたのではない。

勝手に、そうなった。

姉は、目を閉じて、微笑んだ。

その顔を、鏡の中で、見た。

七十六歳の姉の顔の奥に、小さな女の子の顔が、あった。

母に、髪を梳いてもらっていた、あの頃の、顔だった。

わたしは、櫛を動かしながら、思った。

姉は、母に、梳いてもらっているのだ、と。

その夜、わたしは、母の代わりを、務めたわけではない。

ただ、姉が、母に梳いてもらっている時間に、立ち会っていた。

そう思うと、少しだけ、気持ちが、楽になった。

それが何かを変えるとは、思っていない。

あの声の変化に、意味があるのかどうかも、わからない。

それでも、あの夜から、わたしは、少しだけ、考え方を変えた。

姉に、妹として、思い出してもらうことは、もう、いい。

答えがないまま、姉の髪の隣に居続ける。

わたしにできることは、いまも、それだけだ。

ただ、梳く理由が、少しだけ変わった。

姉を安心させるためではなく、あの小さな女の子の顔を、また見たいから、梳いている。

エピローグ

今夜も、風が、窓を鳴らしていた。

姉は、風呂から上がって、居間の椅子に、座っていた。

わたしは、木の櫛を、手に取った。

お母さん、お願いします。

はい、と、わたしは、答えた。

櫛を、毛先から、通した。

右の耳の後ろで、手を止めた。

そこだけ、時間をかけて、櫛を、寝かせた。

姉は、目を閉じた。

ストーブの上で、やかんが、小さく鳴った。

何も解決していない。

答えは、まだない。

明日の夜も、わたしは、櫛を持つ。

姉の白い髪が、ストーブの光を、静かに、受けていた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所