4_朝のひげ剃り
妻を看護師さんと呼ぶ夫に、思い出させる方法を持たない元・帽子店の妻。できるのは毎朝、夫のひげを剃ることだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

朗読で聴く
第一章 四月の朝
京都の、古い町家で暮らしている。
わたしは五十五になる。
以前は、この家の一階で、帽子の店をやっていた。
夫と二人で、三十年、小さな店を営んだ。
四年前に、店を閉めた。
夫に、病気が見つかったからだ。
記憶が、少しずつ、こぼれていく病気だった。
四月の、桜が散りはじめた朝だった。
町家の坪庭に、花びらが、一枚、二枚と落ちていた。
わたしは、夫の部屋の障子を、静かに開けた。
夫は、ベッドの上に、起き上がっていた。
わたしの顔を見て、丁寧に、頭を下げた。
おはようございます、看護師さん。
二年前から、夫は、わたしを、そう呼ぶ。
三十年、連れ添った妻の顔を、夫は、もう思い出せない。
三十年のあいだ、わたしは、夫の帽子を、毎朝、玄関で、わたした。
夫は、鏡の前で、少しだけ傾けて、かぶった。
その傾きを、わたしは、一度も、直さなかった。
その代わりに、毎朝、現れる親切な看護師さんとして、わたしを迎える。
わたしは、いつも、はい、と答える。
訂正は、しない。
夫の目の中で、わたしの名前は、もう、どこにもない。
それでも、夫は、わたしに、礼儀正しくしてくれる。
わたしは、その礼儀に、答えを返せないでいる。
第二章 剃る手
わたしにできることは、もう、ほとんどない。
薬は、医者の言うとおりに、飲ませている。
食事も、風呂も、手伝っている。
けれど、夫を、夫に戻す方法は、ない。
若いころは、思い出させようとした。
結婚式の写真を、見せたことがある。
夫は、写真の中の花嫁を、じっと見て、きれいな方ですね、と言った。
白い角隠しの下で、若いわたしが、少し緊張した顔で笑っていた。
その花嫁が、わたしだとは、気づかなかった。
それどころか、見知らぬ女が、自分の隣に写っているのを見て、怯えた顔になった。
わたしは、写真を、そっと引き出しにしまった。
以来、わたしは、思い出させることを、やめた。
かわりに、毎朝、夫のひげを、剃る。
それが、わたしの、唯一の習慣になった。
洗面器に、湯を張る。
木の柄のブラシで、石鹸を泡立てる。
夫の顎に、泡を、そっと、のせていく。
剃刀の刃を、顎の線に、ゆっくりと当てる。
四年で、わたしの手は、その角度を、覚えてしまった。
夫のひげの向きも、覚えた。
頬は、下へ。顎は、上へ。喉は、ごく軽く、横へ。
その順番が、体の中に、もうできている。
どこの皮膚が薄いか、どこで刃を止めればいいか。
目をつぶっても、剃れる。
帽子店のころ、夫は、毎朝、自分で、ひげを剃っていた。
その背中を、わたしは、台所から、見ていた。
いまは、立場が、逆になった。
第三章 息子が数えるもの
わたしたちには、息子が一人いる。
東京で、会社に勤めている。
三十を過ぎた、律儀な子だ。
息子は、月に一度、京都へ帰ってくる。
新幹線を降りて、京都駅から、バスに乗って、町家の前に着く。
門の格子戸を開ける音が、いつも、少し重い。
帰ってくるたびに、手帳を開いて、父の様子を、確かめる。
今月は、何回、薬を飲み忘れたか。
今月は、何回、夜中に、起き出したか。
それは、息子なりの、父への、向き合い方だ。
わたしは、剃った朝の数を、覚えている。
数えているというより、覚えてしまっている。
夫の顎に、剃刀を当てた朝。
その数が、四年ぶんで、千四百と少し。
何の役にも立たないし、誰にも渡せない。
同じ家にいる二人が、別のものを数えていた。
息子の数字は、手帳に残り、医者との相談に使われる。
わたしの数えているものは、どこにも書けない。
一度、息子に、聞かれた。
母さんは、父さんに、自分が誰か、言わなくていいの、と。
わたしは、すぐに答えられなかった。
言っても、夫には、わからない。
それは、四年のあいだに、何度も確かめた。
けれど、言わないのは、諦めたからだけではない。
言うたびに、夫が、少し怖がる。
その顔を、見たくない。
それが、本当の理由だった。
息子は、そうか、と言って、それ以上は、何も聞かなかった。
第四章 それしかできない
わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。
毎朝、夫のひげを、剃る。
それ以外のことは、介護として、している。
けれど、夫が、夫でなくなっていくことに対しては、何一つ、できていない。
病気を、止めることはできない。
記憶を、取り戻すこともできない。
医者には、何度も聞いた。
いまの薬で、進行を遅らせることは、できる。
けれど、元に戻ることは、ない、と言われた。
それは、はっきりした答えだった。
はっきりしているのに、何一つ、できることが増えない。
役に立っている、と思えた日は、一日もない。
これは、謙遜ではなく、正確な言い方だと思っている。
この病気の前で、わたしは無力だ。
四年やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。
施設に預けようかと、考えたことは、何度もある。
息子にも、勧められた。
わたしが、倒れてしまっては、元も子もないからだ。
それは、正しい話だと思う。
けれど、毎朝、夫のひげを剃ることが、できなくなる。
それだけが、どうしても、引っかかった。
わたしがいなくなって、誰が、あの顎に、剃刀を当てるのか。
施設の職員さんは、きっと、優しい。
でも、あの角度を、知らない。
それが、わたしの、小さな、傲慢なのかもしれない。
第五章 閉じた目
先月の朝、いつものように、洗面器に湯を張った。
夫の顎に、泡を、のせた。
剃刀を、顎の線に、当てた。
そのとき、夫が、目を閉じた。
それまで、夫は、剃っているあいだ、わたしの顔を、じっと見ていた。
知らない人を、観察するような目だった。
その日は、ふっと、まぶたが、降りた。
顎の力が、抜けた。
首が、わたしの手のほうに、ほんの少し、預けられた。
わたしは、息を止めた。
剃刀の刃を、ゆっくり、動かした。
音が、さり、さり、と、朝の静けさの中に、響いた。
夫は、そのまま、目を閉じていた。
最後まで、閉じていた。
わたしが、手拭いで、顎を拭いたとき、夫は、静かに目を開けた。
そして、言った。
ありがとうございます、看護師さん。
それは、いつもと、同じ言葉だった。
けれど、声の温度が、ほんの少し、違っていた。
そう思うのは、わたしの、思い込みかもしれない。
確かめる方法は、ない。
それでも、あの日から、わたしは、少しだけ、考え方を変えた。
夫が、わたしを、妻だと思い出すことは、もう、ない。
それは、変わらない。
けれど、あの目を閉じた時間を、増やすことは、できるかもしれない。
答えがないまま、隣に居続ける。
わたしにできることは、いまも、それだけだ。
ただ、剃る理由が、少しだけ変わった。
夫の身なりを整えるためではなく、あの閉じた目を、また見たいから、剃っている。
エピローグ
今朝も、桜の花びらが、坪庭に、落ちていた。
夫は、ベッドの上で、窓のほうを向いていた。
わたしは、洗面器に、湯を張った。
木の柄のブラシで、石鹸を泡立てた。
夫が、こちらを向いた。
おはようございます、看護師さん。
はい、おはようございます。
わたしは、泡を、夫の顎に、のせた。
剃刀の刃を、ゆっくりと、当てた。
夫のまぶたが、降りた。
さり、さり、と、刃が、顎の上を滑った。
窓の外の花びらが、風で、ひとひら、畳の上に舞い込んだ。
何も解決していない。
答えは、まだない。
明日の朝も、わたしは、湯を張る。
夫の顎の線を、指で、そっと、確かめた。
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