1_浜を一周する
戻らなかった漁師の妻に、なぜ見つからないのか、と問われても答えを持たない離島の巡査。できるのは毎朝、同じ浜を歩くことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

朗読で聴く
第一章 六月の駐在所
沖縄の小さな離島で、駐在所の巡査をしている。
わたしは六十三になる。
この島に赴任して、二十二年がたった。
島の人口は、五百人に満たない。
事件は、ほとんど起きない。
迷子の犬、落とし物、酔った人を家まで送ること。
わたしの仕事の大半は、そういうものだ。
駐在所は、港のそばの、白い小さな建物にある。
窓からは、船着き場が見える。
船着き場には、古い木の杭が、等間隔に並んでいる。
潮が満ちると、杭の根元まで水が来て、引くと、白い藻が顔を出す。
わたしは、その杭を、毎朝、数えるともなく眺めている。
六月の、梅雨の明けたばかりの朝だった。
空が高くて、海の色が、ひどく濃かった。
島では、そういう朝に、よく人が海に出る。
風が穏やかで、魚がよく動く日だからだ。
その二日前の夕方、島の漁師が一人、船ごと戻らなかった。
五十四歳の、平良さんという人だ。
息子さんが、駐在所に駆け込んできた。
父が、船で出たきり、帰ってこない、と。
海上保安庁の船が来て、島の漁船が総出で探した。
三日たっても、船も、人も、見つからなかった。
平良さんの奥さんが、駐在所の長椅子に座っていた。
小さな声で、わたしに聞いた。
なぜ、見つからないんでしょうか。
わたしは、答えを持っていなかった。
第二章 歩く体
二十二年で、何度もこの島で、同じことを聞かれた。
海に出た人が、帰らない。
そのたびに、家族は、同じ問いを口にする。
なぜ、見つからないのか。
なぜ、あの人だったのか。
海の潮のことなら、説明できる。
風向きも、流れの速さも、図に描いて見せられる。
けれど、家族が聞いているのは、そういうことではない。
若いころは、何か言わなければと思った。
必ず見つかりますよ、と言いかけたことがある。
喉まで出かかった。
そのとき、島の古い駐在の先輩の顔が浮かんだ。
先輩は、前の任地で、同じことを言って、見つからなかったのだという。
わたしは、その言葉を、飲み込んだ。
以来、わたしは、約束をしない体になった。
何も保証しない。
何も断言しない。
かわりに、歩く。
毎朝、夜明けに、駐在所を出て、同じ浜を、ぐるりと一周する。
砂浜の端から、端まで。
岩場を越えて、漁協の倉庫の裏まで。
二十二年で、わたしの足は、その道を覚えた。
潮の香りと、乾いた海藻の匂いが、鼻の奥に染みついている。
どこで、誰の家の台所の音が聞こえるかも、覚えてしまった。
どこの砂が柔らかいか。
どこの岩が、朝露で滑るか。
目をつぶっても、歩ける。
同じ道を、同じ速さで、歩く。
それが、わたしの体に染みついた、唯一の習慣になった。
雨の日も、台風の前の日も、変わらない。
合羽の下で、足だけが、同じ歩幅で動く。
第三章 若い警官が数えるもの
本島の署から、ときどき応援に来る若い警官がいる。
三十になる、新垣という男だ。
真面目で、手帳の字がきれいだ。
新垣は、捜索の延べ時間を数えている。
何人が、何時間、どの海域を探したか。
日誌に、きちんと書いて、署に報告する。
それは、必要な記録だ。
わたしは、浜を歩いた朝の数を、覚えている。
数えているというより、覚えてしまっている。
夜明けに、誰かの帰りを待ちながら歩いた朝。
その数が、二十二年ぶん、体のどこかに積んである。
何の役にも立たないし、誰にも渡せない。
同じ駐在所で夜を明かす二人が、まったく別のものを数えていた。
新垣の数字は、報告書に残る。
わたしの数えているものは、どこにも書けない。
一度、新垣に聞かれた。
先輩は、なぜ毎朝、浜を歩くんですか、と。
わたしは、すぐに答えられなかった。
歩いていれば、その家族が、わたしの姿を見かけるからだ、と言いかけて、やめた。
それは、本当の理由ではなかった。
本当の理由は、わたし自身にも、よくわからない。
わかるのは、歩かなかった朝は、一日が始まらない、ということだけだ。
第四章 それしかできない
わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。
毎朝、同じ浜を、一周する。
捜索は、海上保安庁がやる。
わたしの仕事は、その合間の、家族のそばにいることだ。
けれど、そばにいて何を言えばいいのか、二十二年たっても、わからない。
だから、何も言わない。
ただ、歩く。
歩いているあいだ、家族は、浜の上の道から、それを見ている。
日傘の影が、白い砂の上に、小さく落ちている日もある。
見ているだけだ。
靴の中に、細かい砂が入る。
それを払わないまま、また歩く。
何も言ってこない。
それでいい、と思っている。
一度だけ、別のやり方を試したことがある。
十年ほど前、戻らなかった漁師の妹さんに、毎日、駐在所から電話をかけた。
進展はありません、と報告するだけの電話だった。
一週間で、やめた。
妹さんの声が、毎回、少しずつ小さくなっていったからだ。
わたしの電話は、安心させるためのものではなかった。
わたしが、何かをした気になるためのものだった。
それが、わかった。
役に立っている、と思えた日は、一日もない。
あの問いの前で、わたしは無力だ。
二十二年やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。
本島への転勤の話は、何度かあった。
断った。
代わりの人が、この島の朝に、慣れるまでには、時間がかかる。
そのあいだ、誰かが、浜を歩かなければならない。
第五章 逆に回った朝
今年の六月、平良さんの捜索が、打ち切りになった。
三週間、探しても、見つからなかった。
打ち切りの朝、奥さんは、駐在所に来なかった。
わたしは、いつものように、浜へ出た。
夜明けの、薄い光の中を、歩いた。
途中で、足が止まった。
浜の上の道に、奥さんが立っていた。
黒い日傘を、手に持っていた。
わたしは、頭を下げた。
奥さんも、頭を下げた。
それだけだった。
わたしは、また歩き出した。
その日、わたしは、浜の回る向きを、逆にした。
二十二年で、初めてだった。
理由は、よくわからない。
奥さんの立っている場所に、背中を向けたくなかったのかもしれない。
それとも、ただ、いつもの向きでは、歩けなかっただけかもしれない。
逆に回ると、浜の景色が、別のものに見えた。
朝日が、正面から差してきた。
眩しくて、目を細めた。
それが何かを変えるとは、思っていない。
あの向きの変化に、意味があるのかどうかも、わからない。
答えがないまま、浜を歩き続ける。
わたしにできることは、いまも、それだけだ。
ただ、歩く理由が、少しだけ変わった。
奥さんに見られているから、歩いているのではない。
あの浜が、逆向きにも歩けると知ったから、歩いている。
それくらいの、小さな変化だ。
エピローグ
翌朝も、わたしは夜明けに駐在所を出た。
空は、薄い桃色に染まっていた。
浜の砂は、夜の雨で、少し固かった。
わたしは、昨日と同じ向きに、歩き出した。
途中で、ふと思いついて、足を止めた。
それから、向きを変えて、逆に歩いた。
昨日の足跡が、砂の上に、残っていた。
わたしは、その足跡の上に、足を重ねた。
潮の引いた岩場で、小さな蟹が、慌てて隠れた。
船着き場の木の杭に、朝の光が、ゆっくりと当たりはじめていた。
いつもの朝と、ほとんど変わらない光だった。
捜索は、もう終わった。
答えは、まだない。
明日も、わたしは歩く。
浜の端で、一度だけ、海のほうを見た。
それから、駐在所のほうへ、戻っていった。
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