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0_棺のそばに立つ

若い夫を亡くした妻に、なぜうちの人が、と問われても答えを持たない納棺師。できるのは棺のそばに最後まで立つことだけ。答えは出ない。どうにもできないまま、続ける理由だけが少しだけ変わる。

0_棺のそばに立つ

朗読で聴く

第一章 二月の朝

宮崎の海沿いの町で、納棺の仕事をしている。

わたしは五十八になる。

この仕事について、三十一年がたった。

亡くなった人の身なりを整えて、棺に納める。

家族の前で、白い手袋をはめて、静かに行う。

道具は、少ない。

白い布、柔らかい櫛、脱脂綿、小さな桶。

どれも、三十年、ほとんど変わっていない。

変わったのは、わたしの手のほうだ。

指の節が太くなって、細かい仕事に、時間がかかるようになった。

葬儀社に勤めているが、わたしの持ち場は、そこまでだ。

二月の、よく晴れた朝だった。

海からの風が冷たくて、斎場の窓ガラスが、ときどき細く鳴った。

控室には、石油ストーブが一つあった。

灯油の匂いと、線香の匂いが、混じっていた。

壁の時計の音だけが、いやに大きく聞こえた。

その朝の亡くなった人は、三十四歳の男の人だった。

前の晩に、家で倒れたのだという。

原因は、まだ誰にもはっきりとはわからなかった。

奥さんが、棺の脇に座っていた。

二十代の終わりぐらいの、小柄な人だ。

黒い喪服の袖口が、少し長すぎるように見えた。

借りてきたものだったのかもしれない。

わたしは、納棺の手順を、いつもどおり説明した。

説明が終わると、部屋に長い沈黙が来た。

その沈黙のあとに、奥さんが言った。

なぜ、うちの人が。

わたしに向かって言ったのではなかったと思う。

けれど、顔はわたしのほうを向いていた。

第二章 立つ体

その問いに、わたしは答えを持っていない。

三十一年のあいだに、何度も聞いた。

はっきり口に出す人もいれば、独り言のように漏らす人もいる。

何も言わずに、ただ顔を上げて、わたしを見る人もいる。

目が、同じことを聞いている。

若いころは、何か言わなければと思った。

大丈夫ですよ、と言いかけたことがある。

口が開きかけた。

そのとき、隣にいた先輩が、何も言わずに、わたしの袖を、ほんの少しだけ引いた。

それだけだった。

わたしは口を閉じた。

以来、わたしは、立つ体になった。

納棺のあいだ、遺族の前では、膝を曲げない。

座れば、目の高さが遺族に近づきすぎる。

かといって、見下ろしてもいけない。

棺のそばに、半身を向けて、まっすぐ立つ。

それが、わたしが三十一年かけて見つけた、いちばん邪魔にならない位置だ。

若い人に、立ち方を教えてほしいと言われたことがある。

教えられなかった。

足の置き方なら見せられる。

けれど、いつ、どれだけ近づくかは、その場の空気でしか決まらない。

膝が、その立ち方を覚えている。

冬の朝は、膝が痛む。

それでも、立つ。

声を出さない喉も、いつのまにか、そうなった。

家でも、必要なこと以外を、あまり言わない。

妻に、あなたの沈黙は、少し重い、と言われたことがある。

わたしは、謝った。

妻は、謝ることじゃない、と言った。

第三章 課長が数えるもの

葬儀社に、営業の課長がいる。

わたしより十ほど若くて、数字に強い。

課長は、月ごとの納棺の件数を数えている。

今月は何件、先月は何件。

去年の同じ月と、どう違うか。

会議のたびに、紙に書いて、配る。

それは、会社に必要な数字だ。

正しい数字だと思う。

わたしは、そこに口を挟んだことがない。

わたしは、数字を持っていない。

わたしが覚えているのは、最後まで立っていた回数だ。

数えているのではなく、覚えている。

途中で、座りたくなった。

逃げたくなった。

それでも立っていた。

その回数が、三十一年ぶん、体のどこかに積んである。

同じ斎場で働く二人が、別のものを数えていた。

課長の数字は、会議の紙に残る。

わたしの数えているものは、どこにも残らない。

一度だけ、課長に言われた。

斎場の廊下で、缶コーヒーを渡されたときだった。

あの沈黙は、技術ですか、と。

わたしは、ちがいます、と答えた。

ただ、何も言えないだけです、と。

課長は、そうですか、と言って、それ以上は聞かなかった。

第四章 それしかできない

わたしにできることは、突き詰めれば、一つしかない。

棺のそばに、最後まで立つこと。

身なりを整えるのは、仕事だ。

それは、できる。

けれど、なぜ、という問いに対しては、何ひとつできていない。

説明はしない。

慰めもしない。

意味がありますよ、と言った瞬間、それはわたしの意味になる。

その人が自分で見つけるはずのものを、先に塞いでしまう。

問いは、持ち主のものだ。

持ち主から、取り上げてはいけない。

取り上げたら、あとに残るのは、わたしの言葉だけになる。

宗教の人にも、聞いたことがある。

若いころ、まだ口を閉じる前の話だ。

寺の住職に、あの問いには、どう答えるのですか、と。

住職は、少し黙ってから、答えはありません、と言った。

ただ、お経を読むだけです、と。

わたしは、その言葉に少し救われた。

答えがないのは、わたしだけではなかった。

役に立っている、と思えた日は、一日もない。

これは謙遜ではなく、正確な言い方だと思っている。

あの問いの前で、わたしは無力だ。

三十一年やって、無力さの度合いは、一ミリも減っていない。

四十を過ぎたころ、一度だけ、辞めようと思った。

辞めなかったのは、代わりが来ないからだった。

誰かが、あそこに立たなければならない。

役に立たない人間でいいから、立つ人間が要る。

そう思ったとき、少しだけ楽になった。

第五章 半歩

去年の二月、一人の奥さんの納棺があった。

三十四歳の、ご主人だった。

わたしは、いつものように、棺のそばに立っていた。

身なりを整え終わって、蓋を閉める前の、静かな時間だった。

奥さんが、棺のふちに、そっと手を置いた。

そして、立ったままのわたしの隣に、半歩だけ、近づいた。

何も言わなかった。

わたしも、何も言わなかった。

隣に並んだわけではない。

ただ、半歩だった。

そのまま、二人で、棺を見ていた。

控室のストーブの音が、遠くで鳴っていた。

棺の中の人は、ほんの少し、笑っているように見えた。

それは、わたしが整えた顔だった。

どれくらいたったのか、わからない。

そのあと、わたしは、立つ位置を、半歩だけ、遺族のほうへ寄せるようになった。

それが何かを変えるとは、思っていない。

あの半歩に意味があるのかどうかも、わからない。

奥さんの気持ちを確かめる方法もない。

それでも、あの日から、以前とまったく同じ位置には、立てなくなった。

答えがないまま、そばに立ち続ける。

わたしにできることは、いまも、それだけだ。

ただ、立つ理由が、少しだけ変わった。

誰かのためというより、あの半歩が、また来るかもしれないから、立っている。

そう言うのは、少し、できすぎている気もする。

エピローグ

今年の二月も、朝から海風が強かった。

斎場の窓が、細く鳴っていた。

その日の納棺は、八十九歳のおばあさんだった。

息子さんの夫婦が、棺の脇の木の椅子に、並んで座っていた。

わたしは、白い手袋をはめた。

身なりを整えた。

そのあいだ、息子さんは、ずっと黙っていた。

棺の蓋を閉める前に、奥さんが小さく言った。

ありがとうございました。

わたしは、頭を下げた。

立つ位置は、半歩、前に寄せたままだった。

何も解決していない。

答えは、まだない。

来月も、わたしは立つ。

斎場の外では、海が、灰色に光っていた。

帰りの道で、コンビニに寄って、温かい茶を買った。

缶は、手のひらで、ゆっくり冷めていった。

ソウルミッション358

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